とで無いことを諒解させることにつとめる。
第二は、今晩中を甘んじて此の倉庫内に過し、翌朝店員達が出勤し来る頃を見計らって、そしらぬ風を装おって出るのである。毎朝倉庫の扉を開放するのも彼の役目だったから万々疑ぐられることはない――此の方法に依れば、全然勤務成績に影響を及ぼすことがない――
「だが、宿直員の店内巡回と云うやつがあるぞ」
然し、これは極わめて形式的に行なわれる。彼らは一階から出発して五階へ来るまでには充分に疲れている。ただ扉を開けて提灯《カンテラ》をふり廻すだけだ。その場合、彼は倉庫の隅の大きなソファの上で――決して下へかくれる必要はない――二分乃至三分間、静粛にしていればいい………
――彼はガラス窓を透して夜を知らぬ地上の繁栄を眺めやった。八時半に近い。人の出盛りだ! 彼の胸には急に人恋しさ、灯の街恋しさの念が湧き上って来た。馬鹿らしいロマンチシズムだ! そして彼はまだ夜食を摂っていない。非常な空腹を覚えて来た。笑えない生理的欲求だ!
「よし、逃げ出すと決めた!」彼は錠を外ずして扉を開けた。「勤務成績なんか糞喰らえだ。一杯の珈琲《コーヒー》のためには……おや何んだ?」
扉を四五寸開けかけて、彼は彼自身の眼と耳に疑惑を持った。敢えて「家具部倉庫の扉だから」と云うわけではない。然し此の扉は実際素張らしい出来だ。ピッタリ閉めると完全に外部の音響を遮断する! ところで彼が扉を開けた刹那に売場の方から男声《テノール》が飛込んで来たのである――
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花の巴里《パリー》のどん底の
闇に咲いたる血の華は
罪と罰との泥水の
中に生れた悪の華………
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それと同時に扉の間隙から、彼は意想外な光景を目撃した。彼の観念の裡《うち》に、暗黒と沈黙とから形造られていたビルディングには、どうやらあちらこちらに燈光が輝やいているらしいではないか! そして彼の視線の尖端には幾つかの小さな人影が立ち働いている! 畜生、何んということなんだ?
分って見れば何事もなかったが、此の刹那に彼を襲った驚愕の激しさ! はっと胸を搏《う》って来るものの強さ! これは凶事の恐るべき予感だったのであろうか………
「ああ、成程。今日は九月の三十日だった………」
此の百貨店では二ヶ月毎に装飾部主任が外部の装飾業者に請負わせて、全店の装飾面貌に革命を企てる。このことは彼の決心に明るい光りを与えた。既に装飾部員が仕事をしている以上、「三枚の扉」の杞憂《きゆう》は抹殺していい。
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暗い冷めたい下水道
濡れて育ったアパッシュは………
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又誰かが唱っている。彼は憂鬱な唱い手の咽喉に好感を持てた。彼は扉を押した。外に何かつかえるものがある。間隙七八寸で止まった。やや力を加えて見る。それほど力を要しないでも扉は動く様子だ。彼は押した………突然歌声は途切れて、その代りに狂おしげな叫声が伝わった………実にその刹那、扉一枚隔てた外側では、戦慄に値いする惨事が突発したのである!
3
都市美術社の若い装飾工の一人は、五階の欄干《てすり》に足を一本からげ、他の一本は小天使《エンゼル》の彫像の肩に載せて、猿の身軽さを保ち、彼に分担された仕事をやっていた。
彼の脚下垂直六十呎、視線は一階中央大広間の寄木板《モザイック》張りの床に衝突する。今夜の装飾工事の中心を成すものは、その広間に築き上げられる大装飾塔だ。工事は進行しつつある! 指揮者は装飾部主任MT氏。装飾工が蟻のように群がっている。
然し五階で仕事をしているのは彼の外に二人の仲間だけだ。その二人は五階の向う側をやっている。彼の咽喉が俗謡を唱う。「巴里アパッシュの唄」が、百貨店装飾工の仕事行進曲になっても別に差支えはない筈だ。
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暗い冷めたい下水道
濡れて育ったアパッシュは………
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彼は仕事の手を止めた。
「はてな? 俺の気のせいかな?………確かにあの扉が動いたように思ったがね」生憎と扉の周囲は照明不足だった「だが、そんな筈はないだろう。今頃あの中に人が居るなんて!………ブルルッ! 万引女の幽霊かな。何しろむやみと扉を動かされちゃあ困るね。立てかけといた丸太がブッ倒れらア」
扉の方を気にし乍ら――
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光りを閉ざす地の底の
闇に生れたならず者………
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「あッ、いけないや!………誰かあすこに居るんだ!」
彼は口に出して叫ぶ。装飾材料の二本杉丸太が扉の前に立てかけてある。扉が押されれば倒れようとする位置にある。二本共に斜めに倒れる方向は正しく彼の方を指示している!………
「ちょ、ちょっと待てっ!………待ってくれ!……あっ!」
間
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