数年ほど楽しかつた時は無いと思ふ。まだ富士見町に住んで居られる時、晶子夫人から本の装釘を頼まれた。それはどの本の為めといふのではなかつた。当時わたくしは名古屋の閑所《かんじょ》に住み、その庭のかなめもち[#「かなめもち」に傍点]とどうだん[#「どうだん」に傍点]の葉をていねいに写生した。うち忘れた頃それが晶子夫人の歌集「心の遠景」の表紙と其紙函との装飾に用ゐられた。この集の発行は昭和三年六月の事である。わたくしは名古屋を去つて仙台に在つた。木版は孰れも伊上凡骨が其弟子を督して彫刻する所であつた。無頓着に引いた細い線を克明に彫つてくれたのを見て気の毒と思つた。
 もち[#「もち」に傍点]のうちではかなめもち[#「かなめもち」に傍点]が其葉の色が一番美しい。殊に春落葉する前に、暗示の古葉を着け、これに新芽の淡緑と壮葉の藍鼠とが交るのが、色取が好い。
 今も勤先の窓の前に幹の繁いかなめもち[#「かなめもち」に傍点]が一本有る。春になると写生したい衝動を起す。雨宮傭蔵君の為めに画帖に即席に写したことはあるが、本の表紙の為めに画かうと思つたことは嘗て無かつた。来年の春は一つ写してやらうと思ふ。

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