春にして細葉冬青《もち》の枯葉の
色紅く音も無く散りゆくは
秋の落葉に比して
さみしきかなや、ひとしほ
*
草の芽に落葉や雨のしめやかさ
とは大正十五年の春、名古屋のかなめもち[#「かなめもち」に傍点]を見て作つた詩である。
仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の草木を写生した。そこに越してくると、想ひがけぬ木の芽、花の蕾が時々に姿を現はし目を喜ばした。昭和九年の拙著「雪櫚集」は半ば其庭の写生文を集めたものであり、其本の表紙にも自ら庭の一部を写して之に当てた。どくだみ[#「どくだみ」に傍点]とちどめぐさ[#「ちどめぐさ」に傍点]をあひしらつたものであるが、思ふやうに刷り上がらなかつた。
同じ年に出た小宮豊隆君の「黄金虫」がやはりこの庭の写生画を其本の表紙に用ゐた。それは一種のぎばうし[#「ぎばうし」に傍点]のスケツチである。普通のものに較べて葉も小さく、花の茎も短く、殊に葉にはちりめんじわが寄つてゐる。何でももとは舶来の種だと云ふことである。これは表紙の図案にしようなどと思つたのでなく、板下の用意もなく、鉛筆の筋などが雑然として残つてゐた。木版師はそ
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