んな不用意の部分をも丹念に板に刻んだ。その刷上《すりあが》りは上の方であつた。
之を見て結城哀草果君が其歌集の表紙模様を作つてくれと云つた。それでやはり不用意に写して置いた庭の万年青の写生画一枚を上げた。昭和十年に出た「すだま」がその集である。板も印刷も甚だ好かつたが原画が少しぞんざいに過ぎた。一体わたくしの表紙画は多くは庭の草木の寓目の写生であるから、其|地《ぢ》のいろはいつも茶いろである。ちかごろは旅先でゆつくり写生をするやうな事は無いので、モチイフが限られるのである。
まだ其前に谷崎潤一郎君の為めに其「青春物語」の装釘をしたことがある。此書は昭和八年の出版に係る。他ならぬ谷崎ゆゑに引受けたが、本の表紙にしようとなると中々いい趣好が思ひ浮ばなかつた。いろいろの蛇、殊に台湾の紅、藍、色あざやかなのを雑ぜて気味わるく美しい文様を作らうと思つたが、写生が無くては思ふやうに行かないから断めた。また開いた山百合の幾つかの隙間にルノワアルばりの裸形の女を、ちやうど朝鮮の李王家の美術館に在る葡萄の蔓の間に唐子《からこ》を染付けた水差の模様のやうにあひしらはうかと思つたが、それは失敗した。モデルについて裸体を写すの便宜が無かつたからである。結果到着したところは、わかむきの銘仙の柄に見るやうなやたら縞であつた。裏打をした宣紙に臙脂・代赭・藍・浅緑・黒など、太い縞細い縞を定規で引きまた染めると、其堺目が程好くにじんで好看を呈したが、之を板木に彫ると境界が鋭く硬くなり、且つエオジン、インヂコの絵具では日本絵具の生臙脂・藍で画いたやうな色調にはならなかつた。且つ画稿では見立たなかつた平行線のゆがみが気に懸つて見え出した。
これには扉の図案をも添へ、カルトンの体裁をも考へた。実際この二つのものを考へてやらないと好い釣合は得られないのである。
そのうちに、日夏耿之介君から手紙が来て、中央公論社から出す其選集の表紙の模様をつくれと云つて来た。それはちやうどわたくしの選集と同じ型であると云ふ。小堀杏奴夫人がわたくしを尋ねられたのは、それより後の事であつたが、座敷に灯がつき、庭が暗くなると、思ひかけず、履脱《くつぬぎ》の上にあつたベコニアの葉が光り出した。背景になるもち[#「もち」に傍点]の繁みが黒ずんで来たので、ベコニアの葉の紅緑がくつきりと明るく目立つたのである。是れは表紙になると其時考へた。そして十月の或る日曜日にそれを為上げた。まだ試《ため》しずりを見ないからどういふ風に出来るか分らない。始めはもち[#「もち」に傍点]の葉を克明に写して暗い背景としようと思つたが、あまり煩はしい故、藍一色にした。
それからは天下の草木、どれを見ても表紙の図案に見えぬものは無い。殊におほけたで[#「おほけたで」に傍点]の紅花のふさふさと垂れるのは頗る食慾をそそるのであつた。道端に有るゆゑ日々目に附く。
おほけたで今日も盛りと見て過ぐる
このおほけたで[#「おほけたで」に傍点]の有る庭の近くには山茱萸の木が有る。さんしゆゆ[#「さんしゆゆ」に傍点]は東京に在つては、とさみづき[#「とさみづき」に傍点]、いぬのふぐり[#「いぬのふぐり」に傍点]などと共に春を告げる花である。嫩緑、新芽を思はせるさんしゆゆ[#「さんしゆゆ」に傍点]の花の一杯に咲き乱れたところ、ゆつくりと写生して見たい。
同じく季節は違ふが、古び汚れた白茶色の壁に蔦の茎が蔓延し、初夏嫩葉をつけたのは自らなる唐草模様である。
今年であつたか青龍展に姫女※[#「※」は「くさかんむり」+「宛」、第3水準1−90−92、109−9]《ひめぢよをん》を大きな紙にいつぱい画いた人があつた。この草の茎は時として人の胸に達する高さにもなるが、其画では人の頭までほど高く、従つて花は菊の花ぐらゐの大さに為上げられてゐた。青龍展のこの悪趣味をわたくしは私かにメガロマニアと呼んでゐるが、あれを尺大に縮めてくれたら、好い本の表紙になると思つて看て過ぎた。
ちからしば[#「ちからしば」に傍点]などといふ雑草が群り繁るのを見ると、これも図案になる。めひしば[#「めひしば」に傍点]のはびこる空地は、その柔らかさ駱駝の毛の織物に優るとも劣らぬ感じである。あれをゆつくりと写したら類のない本の表紙とならう。
或日或処でふと窓の外を窺ふと、秋の暮に近い弱い日が羽目板の裾に当り、禾本科の草の蔭をシルヱツトのやうに写してゐた。それに濃淡が有り、而も自然の奥行を想像せしめた。是こそ絶好の本の表紙だと思つた。その草はと目を移すと、なほ幾ばくかの穂を止めたえのころぐさ[#「えのころぐさ」に傍点]であつた。こんなものも見方によると、あんなにも美しい模様になるかなと嘆ぜざるを得なかつた。
そしてたふとい日曜日のいくつかを費して
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