を買い求め、下宿に帰つて、鏡におのが姿を写し、顔をしかめて画像のモデルとした。履があまり大きに過ぎたのを除いては自分の気にもかなふものであつた。後年ずゐぶん久しぶりで、杏奴夫人の令先堂を其臨終に近い臥床に奉問した。其枕頭には魔除けの為めに曩日の鍾馗の画像が立てかけられてあり、わたくしは二十幾年ぶりかに、ゆくりなくも此分身に邂逅したことがあつた。
幼少の頃、郷家では呉服太物の商売をしてゐた。時々東京の店から仕入物の大きな荷物が到着した。わたくしには子供ながら、中形の模様の好悪、唐桟の縞の意気無意気を品評することが出来た。殊にフラネル、綿フラネルの、当時なほイギリス風の趣味を伝へた縞柄には、今の言葉でいふと、異国情緒を感じたものであつた。また虹のいろの如く原色を染めまぜた毛糸の束《たば》は不思議な印象を与えたものである。後にパリでオツトマンがかかる色彩諧調によつて幾多の絵を作つてゐるのを看た。昔流行つた無地の面子《めんこ》の淡紫、淡紅の色、また古渡りの器皿の青貝の螺鈿の輝き、その惹起する感情は孰れも相似てゐるが、わたくしは其齎らす情緒の成因を分析する術を知らない。
大学生の頃は、ドイツのエス・フイツシヤアが其発行する文学書に美しい更紗模様の図案を施した。ホフマンスタアルのさう云ふ本を幾冊も買ひ求めたが、皆大震災の時失つてしまつた。さういふものがわたくしの本の表紙の図案に或る影響を与えてゐることは疑が無い。
大正八年アララギ発行所がわたくしの「食後の唄」を出版してくれた。今のアララギの傾向とはまるで相合はぬものであつたが、当時は文壇がまだ甚だ分化せず、かかる雑糅が何の奇もなく行はれてゐた。これは四海多実三の侠気により上梓せられたもので、北原白秋君が序をかいてくれ、島木赤彦君が校正をしてくれた。発行部数は少く、其半ばは発行書肆に於て大震災で焼け失せた。島木君は古典に親しむ者であつたから、わたくしがわざと匹田《しつた》と下町風の称呼で振仮名をしたのを、匹田《ひきだ》と直したりなどした処もあつた。その集の装釘は小糸源太郎君に頼んで、唐桟模様にして貰つた。それは江戸趣味に直したエス・フイツシヤア本であつた。
同じモチイフは「木下杢太郎詩集」では成功しなかつた。
與謝野寛・與謝野晶子両詩宗は既に歴史のうちの名となつた。わたくしは今考へて、其新詩社に通つた頃と其あとの数年ほど楽しかつた時は無いと思ふ。まだ富士見町に住んで居られる時、晶子夫人から本の装釘を頼まれた。それはどの本の為めといふのではなかつた。当時わたくしは名古屋の閑所《かんじょ》に住み、その庭のかなめもち[#「かなめもち」に傍点]とどうだん[#「どうだん」に傍点]の葉をていねいに写生した。うち忘れた頃それが晶子夫人の歌集「心の遠景」の表紙と其紙函との装飾に用ゐられた。この集の発行は昭和三年六月の事である。わたくしは名古屋を去つて仙台に在つた。木版は孰れも伊上凡骨が其弟子を督して彫刻する所であつた。無頓着に引いた細い線を克明に彫つてくれたのを見て気の毒と思つた。
もち[#「もち」に傍点]のうちではかなめもち[#「かなめもち」に傍点]が其葉の色が一番美しい。殊に春落葉する前に、暗示の古葉を着け、これに新芽の淡緑と壮葉の藍鼠とが交るのが、色取が好い。
今も勤先の窓の前に幹の繁いかなめもち[#「かなめもち」に傍点]が一本有る。春になると写生したい衝動を起す。雨宮傭蔵君の為めに画帖に即席に写したことはあるが、本の表紙の為めに画かうと思つたことは嘗て無かつた。来年の春は一つ写してやらうと思ふ。
春にして細葉冬青《もち》の枯葉の
色紅く音も無く散りゆくは
秋の落葉に比して
さみしきかなや、ひとしほ
*
草の芽に落葉や雨のしめやかさ
とは大正十五年の春、名古屋のかなめもち[#「かなめもち」に傍点]を見て作つた詩である。
仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の草木を写生した。そこに越してくると、想ひがけぬ木の芽、花の蕾が時々に姿を現はし目を喜ばした。昭和九年の拙著「雪櫚集」は半ば其庭の写生文を集めたものであり、其本の表紙にも自ら庭の一部を写して之に当てた。どくだみ[#「どくだみ」に傍点]とちどめぐさ[#「ちどめぐさ」に傍点]をあひしらつたものであるが、思ふやうに刷り上がらなかつた。
同じ年に出た小宮豊隆君の「黄金虫」がやはりこの庭の写生画を其本の表紙に用ゐた。それは一種のぎばうし[#「ぎばうし」に傍点]のスケツチである。普通のものに較べて葉も小さく、花の茎も短く、殊に葉にはちりめんじわが寄つてゐる。何でももとは舶来の種だと云ふことである。これは表紙の図案にしようなどと思つたのでなく、板下の用意もなく、鉛筆の筋などが雑然として残つてゐた。木版師はそ
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