なほ三枚の本の表紙の図案を作つた。その一つは藍、紫の実を垂らしたひいらぎなんてん[#「ひいらぎなんてん」に傍点]の葉と茎とである。これは家の門内の籬に沿うて植ゑられてゐるものである。地《ぢ》の色は濃茶《こいちや》である。それに若茶柳から松葉納戸・明石鼠に至るまでのさまざまの色をした葉が乱れ垂れるのである。
 も一つは藤の葉である。縁日の鉢植ゑを庭に移すと一二年はなほ花を開いた。近ごろは花は咲かず、其葉、其蔓が低く地を被ふ。或る十月の日曜日の朝ふとそれに目を移すと、黒く古ばんだ硬い葉の間に、杪春の新芽を思はせるかよわい小葉が雑つてゐる。其一つ一つの葉弁のねぢれた様はロダンを酔はしめた裸女の腰のひねりにも似ている。これを写さでは有るまいと思ひ、鉛筆で輪廓を取り、好半日を費した。それからは、夜、為事をしまつたあと、三十分、一時間づつ地の色を伝した。葉・茎を白く抜くのであるから、幾夜かを費した。そしたら白く抜けいでた葉に彩色をするのが惜しくなつた。甚だ不倫な言ひざまで恐縮の極であるが、わたくしはレオナルドオのモナ・リザよりは寧ろ其サン・ジエロニモの画を愛する。レオナルドオのあの鋭くして柔軟な素描《すがき》を残したジエロニモこそ世にもこよない物である。ああ丹念に油彩で為上げると、モナ・リザの神秘な微笑も硬くいかめしいものになる。夜郎のこの藤の葉も白く残して置きたかつたが、過猶不及といふ孔夫子の戒に背いてしまつた。わたくしは藤の葉を螺鈿貝のやうに明るく光らせたかつたが、塗り上げたかつたが、出来上つたものは、頗る英米的の合理主義になつてしまつた。
 この夏仙台に往つた時、小宮豊隆君がも一度其著書の為めに表紙画を作れと云つた。まだその積りでゐるかどうかは知らぬが、このうちの一枚はひそかに其為めに画いたのである。

 やはり十月の或朝の事であつたが、わたくしが学校へ行かうとして門をあける前に、その小庭に不思議なものを見た。カステラの屑が一ところに落ちかたまつてゐるかの如き様態のままである。
 ポルツガル人は日本にカステラの製法を伝へた。数年前日本に在つたポルツガルの公使カルネイロ氏の説く所に拠ると、ポルツガルではそれを Bolo de Castella' エスパニヤの菓子といふ。それからカステラといふ日本語になつたのだらうと云ふことである。同じポルツガル人《びと》はシヤムにもスポンジケイクの製法を教へた。シヤムではそれを Kanom Farang と呼ぶ、シヤムには尚 Oeufillet の菓子を伝へた。そのシヤムの名は Foi Thong である。近ごろけぶな事と思ひ、食指動き、片唾をのみつつ近く熟視すると、それは一種の蕈であつた。河村清一博士の蕈の図譜がいまちよつと見当らぬから、其名を知る由がないが、其一つ一つの大さは小指の先ほどであつた。無論大小がある。それは真竹の根の地上に三寸ばかり現はれた処に発してゐた。其まはりには乾いた土が、蟻の塔のやうな明るい粒々で、梨子地の箒目を描いてゐた。夕日が竹叢に当ると地面に参差交横の稀影を描いた。或る日曜日の午後は空が雲で被はれてゐた。地上に紙を展べてこの蕈のむれを写し、添ふるに二三片の柘榴の落葉を以てした。昔風の年寄りの江戸褄のやうになり、予期した効果を得ることが出来なかつた。

 朝早く大学の池の畔に行つて、濁つた水の上に張り出した椎の太幹と其葉とを写したことがあつた。この頃は見たままの写生を自らなる図案にするといふのが目あてであつた。顕微鏡でのぞく黴の類《たぐひ》にも其器官に美しい装ひをするものがある。何の必要であらう。何物の為めの装飾であらう。考へたつて分りやうはない。蝨といふいやしい虫でも、其棲む環境に対する聯想を離れて、生きた姿其者を窺ふと、甲冑いかめしい美しいつくりである。然しそれとて、我々が考へるやうに「美」の為めに出来上つたものではない。食ふか食はれるかの必然がそこに到らしめた結果である。凡て好く生きるものは美しい。年頃の人には女の乳房さへ美しく見える。戦も亦美しい。より好く生きようといふ民族の願望がそれを美と感ぜしめるのである。老いたもの朽ちたものも美しいといふ人がある。それは憐みの心がさう思はせるのであらう。老いた人が次の代の為めに夢を伝へる姿は、それは本来の美しさである。密林の朽木がわかい下草の肥《こやし》になる犠牲の様態には、畏敬に伴ふ美があらう。
 アナトオル・フランスの小説の中に、フランスの民族は世界の文化の為に十分の貢献を尽した。よしんば其国が滅んでも思ひ残す所は有るまいといふ句があつた。どの小説であつたかと、その後捜して見たが、つひ見当らなかつた。その句はフランスの讖をなした。然しさう云ふ風に自ら憐むの美を以て得心することが出来ようか。
 未来に栄える実用を包蔵しないも
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