満喜三郎 然らば問はむ。如何なるか是れ仏法。
乗円 即心即仏《そくしんそくぶつ》。
伊留満喜三郎 如何なるか是れ即心即仏。
乗円 即心即仏。
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伊留満忽ち隠し持ちたる短刀を抜いて、乗円が胸に閃かす。
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伊留満喜三郎 如何なるか是れ仏《ぶつ》。
乗円 (平然として)法性は之れ無知亦無得《むちやくむとく》、無色亦無受相行識《むしきやくむじゆさうぎやうしき》。
うかれ男 (つと進み伊留満の手を押へて)宗論に刃物三昧は卑怯なるぞ。
伊留満喜三郎 (うかれ男に引かれて二足三足、後へ退《すさ》りながら)無知亦無得とは珍らしや。本来空ならばなどて天地万象が生ぜむや。
乗円 諸法空相、不生不滅《ふしやうふめつ》、不垢不浄《ふくふじやう》、不増不減。
伊留満喜三郎 何と諸法が空相とや。烏滸《をこ》がましき似非経文《えせきやうもん》よな。本来諸法が空相なら、何ぞ空《くう》を空ずるの相あらむや。誠や大神でいゆす[#「でいゆす」に傍点]は之れ天地能造の主、人類の起源。抑も天地虚曠晦冥、でいゆす[#「でいゆす」に傍点]光あれと呼べば即ち光あり。人あれといへば即ち人あり。諸人何ぞこの大神を崇《あが》めざるや。何ぞ猥りに神威を疑ひ、大神の怒、天地滅尽、じゆいそぜらる[#「じゆいそぜらる」に傍点]の時来らむを恐れざるや。何ぞてしひりいないる[#「てしひりいないる」に傍点]を取り自ら己が身を打つて懺悔礼拝《ざんげらいはい》せざる。何ぞさんた[#「さんた」に傍点]、くるす[#「くるす」に傍点]を吻《す》ひて、偏《ひとへ》におらつしよ[#「おらつしよ」に傍点]を唱へざる。波羅葦増雲近づけり。祈りを上げよ。おおらつしよ[#「おおらつしよ」に傍点]、おおらつしよ[#「おおらつしよ」に傍点]、さんたまりや[#「さんたまりや」に傍点]。
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伊留満高く金十字架を頭上に捧げ、ひたすらに聖頌を唱ふ。門内の楽曲、厳粛豊麗なる寺院楽律よりやうやう神秘奇峭なる近世的問題楽曲に移る。四下やうやうさわがしくなる。
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第一の人 あれ伴天連《ばてれん》が妖術を始めたぞ。
第二の人 何ぢや妖術ぢやてや。
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舞台やうやく赤くかすみ来り、後景なる寺の石垣|模糊《もこ》として遠く退き、人々の形も朦朧として定かならず。楽音の旋律更に激越想壮[#「想壮」はママ]の度を加へ、之に諧和せざる梵音はた三絃の声も、囂々《がうがう》として亦その中に雑《ま》じる。
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乗円 遠離一切顛倒夢想《ゑんりいつさいてんだうむさう》。
伊留満喜三郎 ろうだつと[#「ろうだつと」に傍点]、どみのむ[#「どみのむ」に傍点]、おむねす[#「おむねす」に傍点]、でんと[#「でんと」に傍点]。
乗円 究竟涅槃《くきやうねはん》。
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忽ち所化長順群より離れ、舞台の中央に来り、舞妓白萩にすれ違ひ、
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長順 ふつ、其方《そなた》は……
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白萩袖を翳して退く。これより長順は白萩を追ひ之にからむ。うかれ男その間に入りて之を妨ぐる仕草。この三人の間に往々また伊留満の姿現はる。右手に高く金十字架を捧ぐ。金の十字架煌々と光る。沙門等は下手の方《かた》、程よき所に立ち並ぶ。楽声、沙門、伊留満等の祈祷唱讃の声、諸人の驚き叫ぶ声、紛々囂々ととだえとだえにひびらぐ。
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長順 ふつ。其方はお鶴どのではござらぬか。
白萩 さういふお前は源さまか。
長順 あな、珍らしや、お鶴どの其方は健《まめ》でおぢやつたか。
白萩 あれなつかしや源さま。
長順 最早其方はこの世にはおりないものと思ひあきらめ……
白萩 怨めしや源さま。
うかれ男 やよ白萩、時が遅うなるわ、早やう罷《まか》らうと申すにな。
長順 (回想に耽るが如く夢幻的に、)彼《か》の時其方は全盛の歌ひ女《め》、殊に但馬守殿が執着のおもひ者、われは貧しき沙門の小忰《こせがれ》、どうせ儘ならぬ二人の中、思ふが迷《まよひ》と人にもいはれ、
白萩 お前はあむまり独合点《ひとりがてん》……
長順 え、ままよ、さうなりや人をも殺し、われも死に、無間《むげん》地獄に落ちば落ちと、暗夜《やみよ》の辻にもさまよひしが……
白萩 源さまお前もあむまりな、などて一言その事をわたしに明してくれなんだ……
長順 思へば女一人のために、身を殺さむは、さすが世間の手前、人の思はくも恥かしく、此世ながらの梵涅槃《ぼんねはん》、桑門《さうもん》の道に入りもしたれ、そなたと分れて四年《よとせ》の間……
白萩 わたしや夜昼泣いて泣いて……
うかれ男 早う去なうと申すにな。
白萩 あれ諄《くど》い衆ぢや。帰りたくば一人で行なしやんせいなあ。
長順 始めは山の金鼓《きんこ》の音、梵音楽《ぼんのんがく》を珍らしみ、勤行唱讃に耽りしが……
白萩 そんならお前は、私《わし》のことはうち忘れてか……
長順 止観の窓を押し開き、四教の奥に尋ね入れば、無明《むみやう》の流れは法相の大円鏡智と変りはすれ……
白萩 ……はれ。
長順 幼き時ゆこがれたる、ほの珍らかにいと甘き、いとあえかにもなつかしき『不可思議』の目見《まみ》は我胸より全《まつた》く消えうせ、遺《のこ》れるは氷の如き空《くう》の影。――(演説の調にて)法相|真如《しんによ》といふと雖《いへど》も之れ仏陀乃至伝教等沙門の頭を写したる幻の塔、夢の伽藍、どうせ人の頭より出たるほどのもの故、学んで悟られぬ筈はおりない。悟といふは益《やく》ない徒労。わが望むところは彼の『不可思議』、解けがたき命の謎、一たび捨てにたる無明煩悩ぢや。天台乃至伝教はわが胸中のこの宝を盗みたる、いはば物取強盗ぢや。宗門を蹴らいで何としようぞ。
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所化等 (遠くの方にて)羯諦《ぎやあてい》、羯諦、波羅羯諦《はらぎやあてい》、波羅僧羯諦《はらそうぎやあてい》。
伊留満喜三郎 (前方に立ち現はれ)おらつしよ[#「おらつしよ」に傍点]、おらつしよ[#「おらつしよ」に傍点]。ぐろりや[#「ぐろりや」に傍点]、はとり[#「はとり」に傍点]、えひりおゑぬ[#「えひりおゑぬ」に傍点]、ぴりてゆい[#「ぴりてゆい」に傍点]、さんくと[#「さんくと」に傍点]。
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忽ち門内沈痛悲壮なるゐおろんちえろ[#「ゐおろんちえろ」に傍点]のそろ[#「そろ」に傍点]。
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長順 (舞踊の間に黒き法衣を脱ぎ華美なる姿となる)あれ、南蛮寺の中に奇《く》しき響きがしておぢやるわ。(奥よりゆきて)あの響ぢや、あの響ぢや。わがこがるるはあの響ぢや。白萩はやうおぢやれ、あの響ぢや。あの響ぢや。
伊留満喜三郎 べねぢくちゆす[#「べねぢくちゆす」に傍点]、どみにす[#「どみにす」に傍点]、でゆす[#「でゆす」に傍点]、いすらえる[#「いすらえる」に傍点]。ぜじゆきりすて[#「ぜじゆきりすて」に傍点]。さんたまりや[#「さんたまりや」に傍点]。
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遠き方に、再びかすかに童子等が夕やけの唄。舞台、紅色の靄はやうやう消えゆきて、さびしき青色の光となる。後景の石垣再び鮮かに前に出づ。門内の楽音も亦ややに静まりゆく。忽ち上手に気味わるき人声。
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声 やい、こりや、こりや、喜三郎よ。
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褐色の衣。袴の股立《ももだち》高く取つたる、年老い痩せ屈みたる侍、大刀の柄に手をかけつつ上手より登場。
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老いたる侍 (憤怒の相貌恐ろしく、手も体もうち顫へつつ)やい、喜三郎よ。其方《そち》はよつくもまた此処《ここ》へ来ておぢやつたな。
伊留満喜三郎 (十字架にて眼をかばひながら)や、叔父上か。
老いたる侍 只今|其方《そち》の母御はな……え、思ふだに涙が雫《こぼ》れるわ……其方の不孝をう、怨み、怨み死にに死んでおぢやつたのぢや。
伊留満喜三郎 ええ。母人が死なれたとや。
老いたる侍 不孝者奴!
伊留満喜三郎 (首うなだれ、思ひ沈むこなし、ややありて―独白)この大神の御為めには、母も捨て、妻、子も捨てよと……ええ、聖経にも記されておぢやるわ――叔父上!
老いたる侍 不孝の罪はまだしもあれ、汚《けが》らはしき異国の邪法に迷ひ、剰《あまつ》さへ、猥りに愚人を惑はすとは……
伊留満喜三郎 え、惑はすとな……
老いたる侍 ……不、不、不便《ふびん》ながら其方の命は、父御《ててご》に代りこの叔父が……え、思ひ知れ、天の罰ぢや。
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老いたる侍、忽ち刀を抜いて伊留満の首を落す。四囲《あたり》の人々、皆驚き恐れ『人殺ぢや、人殺ぢや』などいひつつ逃れ去る。沙門等、長順、白萩のみのこる。
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老いたる侍 (刀の血を拭ひ、鞘に納めながら、四下の人は眼にも入らざるが如く、つぶつぶと独語《ひとりご》つ。)……御《ご》、御先祖《ごせんぞ》への申訳ぢや……御、御、御先祖への申訳ぢや……(よろめきつつ再び上手の方より去。)
第一の所化 (一歩前に踏み出し乍ら)やれ、口惜《くちをし》や、南蛮寺の妖術めに化《ばか》されておぢやつたとは。
長順 (夢中に老いたる侍の後を追ひゆきて)お侍、些《ち》と待たれい。
第一の所化 (忽ち長順の領《えり》を捉へて)こや、長順。
長順 離しやれ、そこ離しやれい。
第一の所化 お主《ぬし》は血相かへて何する積りぢやえ。
長順 ふむ、何を隠さう――徒《いたづ》らに俗世間の義理人情に囚へられ、新しき教の心もえ覚《さと》らぬ俗人|原《ばら》、あの老耄の痩首|丁切《ちよんぎ》り、吉利支丹宗へわが入門の手土産《てみやげ》にな致さむ所存。
第一の所化 何と、吉利支丹へ入門とな。
長順 新しき不可思議を某《それがし》は望むのぢや。
第一の所化 やあい、同学衆よ。長順が吉利支丹へ改宗ぢやと申し居るわ。
所化等 え、邪宗へ改宗ぢやてや。
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再び門内に楽声。あこがるるが如きろまんちつしゆ[#「ろまんちつしゆ」に傍点]の曲節。
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長順 おおあの声にあくがるるのぢや。
乗円 (痛ましき顔容をなして)長順!(長順眼差を落す。)
学頭 如何に方々、長順が堕落の程はもはや一毫の疑も容《い》れぬ所ぢや。容捨は無用ぢや。棒を与へよ。
第一の所化 長順今ぞ思ひ知れ!(杖を以て打たむとす。)
乗円 (之を遮りて)ま、ま、待たれい、方々、第一の笞《しもと》はこの乗円に任されよ。――やよ、長順。煩悩六根の為めに妨げられたる其方《そち》の心では、わが言《こと》はえ分るまいが、古き法類ぢや、少時《しばし》わがいふことを聞かれよ。其方とわれとはふとしたる奇縁により、兄弟も及ばざる交を結びたりしが、かの時誓ひし言の葉は、まだえ忘れは致すまいがな。
長順 ふつ。
乗円 大恩教王の御教は日月輪《にちぐわつりん》の如く明かれども、波羅密多《はらみた》の岸は遠く、鈍根痴愚の我等風情に求道の道は中々の難渋、それ故に互に諫《いさ》め励まし、過あれば戒め懲《こ》らし、よしや歩《あゆみ》は遅からうとも、いやさ精進懈怠《しやうじんけたい》はあるまいと、誓ひし言葉を覚えて居やるか。
長
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