此世ながらの梵涅槃《ぼんねはん》、桑門《さうもん》の道に入りもしたれ、そなたと分れて四年《よとせ》の間……
白萩 わたしや夜昼泣いて泣いて……
うかれ男 早う去なうと申すにな。
白萩 あれ諄《くど》い衆ぢや。帰りたくば一人で行なしやんせいなあ。
長順 始めは山の金鼓《きんこ》の音、梵音楽《ぼんのんがく》を珍らしみ、勤行唱讃に耽りしが……
白萩 そんならお前は、私《わし》のことはうち忘れてか……
長順 止観の窓を押し開き、四教の奥に尋ね入れば、無明《むみやう》の流れは法相の大円鏡智と変りはすれ……
白萩 ……はれ。
長順 幼き時ゆこがれたる、ほの珍らかにいと甘き、いとあえかにもなつかしき『不可思議』の目見《まみ》は我胸より全《まつた》く消えうせ、遺《のこ》れるは氷の如き空《くう》の影。――(演説の調にて)法相|真如《しんによ》といふと雖《いへど》も之れ仏陀乃至伝教等沙門の頭を写したる幻の塔、夢の伽藍、どうせ人の頭より出たるほどのもの故、学んで悟られぬ筈はおりない。悟といふは益《やく》ない徒労。わが望むところは彼の『不可思議』、解けがたき命の謎、一たび捨てにたる無明煩悩ぢや。天台乃至伝教は
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