匹この川を上《のぼ》つて來たねえ。」
「本當ですともお孃さん。今年は二度目だつてますよ。」
「こんな小さい川に鮭が來ようはない。うそだ。[#底本では「うそだ」のあとの「。」が抜けている]」と男の子が頑項《かたくな》に答へた。
「あら本當よ。それなら誰にでも聞いて御覽。あたいは嘘なんぞ言はないから。」
「それあどうにかして迷つて來たのよ。そしてみんなが大騷をしたけれども、間に合なかつたのだよ。」と女中が説明して居る。
 立派な白い髯《ひげ》の生えた老人が、庭さきで、筆に水を含ませて萬年青《おもと》の葉を洗つてゐる。老人が腰を屈《かが》めて、落ち付きはらつてそんなことをしてゐる態《さま》が、遠く庭の緑を拔けてくつきりと見える。
 少し肥つた、二十《はたち》ばかりの美しい娘がその傍にゐる。何氣なく老人の仕事を見て居るやうである。それらの光景は、鏡の中の像のやうに、木戸のあなたに、小形にはつきりと見えるのである。
 さつきの小娘は其方を眺めてゐたが、急に聲をあげて空の方へ向つて言つた。
「あんちや、危いよ。おぢいちやんに叱られるよ。」
 ちやうど二階の屋根に少年が登つたのである。少年はそんな呼
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