で若しや偶然に彼の青年と邂逅しはしまいかと恐れたりなどした。
 河の水面は異樣に明るかつた。岸には夕方の釣に出る素人《しろうと》や黒人《くろうと》の舟が一杯集つてゐた。少年は河の岸まで來ると安心して、そして何事も考へずに空の一方を眺めた。河下の空は繁い雲がまつ赤に染められてゐた。
 少年は更にどうしようかと考へた。何氣ない風をして、もう二三時間を送らうと考へた。そして岸を傳つて漁夫町の方へと行つた。
 その頃は既に彼の青年が富之助の家の門内に入つてゐた。
 青年はこの家の門を左手に見たときに、確かにこの家だといふ事は信じたらしい。それにも拘らず、歩が丁度門の前に來た時は立ち止らうとはせずに、尚ほもずんずん前進した。がそのうちに歩行の速さが鈍つた。そして一瞬間立ち止まつた。そして歩き返して今度は門前でまた立ち止る。次の瞬間には彼は今までとは全く別な決斷的の態度で門内に入つた。門に入ると疎《まばら》な竹垣から、内の心持の好い庭が透けて見えた。印判屋の教へてくれた銀杏樹は、家の屋根に隱れて繁つた梢のみがそこに見られた。また右の方には小さな木戸があつた。木戸が開《あ》いて居て、その内側が見える
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