で若しや偶然に彼の青年と邂逅しはしまいかと恐れたりなどした。
河の水面は異樣に明るかつた。岸には夕方の釣に出る素人《しろうと》や黒人《くろうと》の舟が一杯集つてゐた。少年は河の岸まで來ると安心して、そして何事も考へずに空の一方を眺めた。河下の空は繁い雲がまつ赤に染められてゐた。
少年は更にどうしようかと考へた。何氣ない風をして、もう二三時間を送らうと考へた。そして岸を傳つて漁夫町の方へと行つた。
その頃は既に彼の青年が富之助の家の門内に入つてゐた。
青年はこの家の門を左手に見たときに、確かにこの家だといふ事は信じたらしい。それにも拘らず、歩が丁度門の前に來た時は立ち止らうとはせずに、尚ほもずんずん前進した。がそのうちに歩行の速さが鈍つた。そして一瞬間立ち止まつた。そして歩き返して今度は門前でまた立ち止る。次の瞬間には彼は今までとは全く別な決斷的の態度で門内に入つた。門に入ると疎《まばら》な竹垣から、内の心持の好い庭が透けて見えた。印判屋の教へてくれた銀杏樹は、家の屋根に隱れて繁つた梢のみがそこに見られた。また右の方には小さな木戸があつた。木戸が開《あ》いて居て、その内側が見える。大きな井戸があつてその向ふが臺所になつてゐるらしい。年頃の娘が向うむきになつて井戸端にとばんでゐる。
青年が玄關に立つた。そして「御免下さい。」と云つた。返事がなかつた。もう一度言つた。すると白い髯《ひげ》の生えた老人が玄關に出て來た。青年は少し意外に感じて、はつとしたらしい態度を示した。そして一禮した。
老人は何とも言はないで少時《しばし》玄關に立つたままでゐる。是れも、どうも事が意想の外であると思ふらしい風である。富之助が今日來る友達と云ふ人は彼より遙かに年上であると語つた。然しその男をまだ見ない老人は、それでも富之助の同輩だと思つてゐた。それが今見るともう大人らしい青年である。さう思つて老人が青年を見詰めてゐる時に、青年が言つた。「土屋富之助さんのお宅はこちらでございますか。」
老人もこの時既に他の事へ心をはたらかしてゐた。そして言つた。「あなたは何の――その、鹿田さんですか。まあお上り。富之助も居ます。――まあこつちにお上り。」さう言つて置いて老人は別の部屋へと去つた。誰かに物を命じてゐるやうである。
然し其後に玄關へ來たのはやはり件《くだん》の老人で、青年を案内して
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