相別れて自分の行くべき道を歩いて居るが、その中に白い飛白《かすり》を着て帽子を被り、手に蝙蝠傘と、大きい四角な、然し輕るさうな包を持つた二十四五の男は、他の人が眞直ぐに前方を向いて歩いてゐるにも拘らず、不案内さうにあちらこちらを見※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、234上−12]はし、それでも或方向へと街道を大分歩いて來た。
 道が平行に幾本かに分れる處へ來ると、はたと足を停めた。見ると角に小さな印判屋があつて、その店では煙草やちよつとした雜貨を賣つてゐる。わかい男は之を見出すや否や、その店の方へ歩み寄つた。
「ちよつとうかがひます。」うつろな一種の響を持つた聲である。印判屋の亭主が小さい刀の手を休《や》めて顏をあげると、わかい男が尋ねた。「あのこの邊に土屋さんて家がありませうか。」
 主人は冷淡に、然し煩《わづら》はしいといふのでもなく應じた。「土屋何といふのですか。」
「土屋……土屋富之助といふ、東京の中學へ行つてゐる學生の家ですが……何でも停車場からさう遠くはないと聞いてゐましたが。」
「さうですか[#底本では「そうですか」と誤記]。それなら土屋守拙さんといふ學者のお宅でせう。それならこの道を眞直ぐに行くと石垣のある家の角に郵便函がありますが、その四辻の角を左に向くと小さい橋があります。その岸を川下にお下んなさい。直ぐです。黒い塀が※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、234中−4]つて、大きい銀杏樹のある家です。」
「さうですか、有りがたう御座います。」
 そして青年が辭し去つた。……
 かう云ふ青年の動作をまんじりともせず見て居た人がある。それは言ふまでもなく屋上の少年であつた。そして青年が印判屋の角へ來るところまでは突き止めた。隱れんぼをする子供が、見つかりさうになりながら急に逃げ出すといふ刹那の心理を以て、彼は倦《あ》かず此青年の擧動を視察した。
 青年の姿が印判屋の軒下に隱れた時に、彼ははつと心を周章《あわて》させた。さあどうしよう、もう五分とは經たないうちに彼の青年は自分の家の門前に來る。
 ――少年は倏忽《たちまち》屋根から下つた。そして他の人に怪しまれない限り急いで庭へ出て、そこから麻裏草履をはいて河の方へと驅け出して行つた。彼はもはや策が盡きて、どうかして時間の餘裕を作るべく逃げ出したのである。途中
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