、ある狹い室に導いた。その室は黒い土の壁で、床の間には眞四角な懸物が懸つて居た。そして一方には小さい庭があつて、高い柵で隣の神社境内の空地と接してゐた。
 日かげが漸く傾き、油蝉が一しきり鳴きさわいだ。
 女中が茶を運んで來たりした。然し富之助は顏を見せなかつた。
 少時《しばらく》すると嚮《さつき》の老人がそこへ現はれた。然し姿は前とは異つて、羽織を着け袴を穿いてゐた。
 老人が其部屋へ來ていきなり言ふには「富之助も今朝からあなたをお待ち申して居りましたが、何か用事でも出來て外出したと見えて今居りません。迎ひにやつたから直ぐ戻つて來ませう。わたくしもゆつくりお話し申したいのですが、今出なければならぬ用事が出來たから長くお話しすることは出來ません。」さう鄭重に言ひながら座に就て、「あなたは伜とは別懇の間ださうですが、どうですか、伜の成績は。もう試驗の成績は分りましたらうな。」
 青年は思ひがけない話題だからちよつと當惑した。「もう成績は分りました。富之助さんは惡い方ぢやありません。」
「いやあれの兄に當るのは――兄はもう死にましたが、中々好く出來た奴だつたが、どうも富之助は文學やなんぞが好きで、數學などが善く出來ないやうに思はれる。これから先の世の中は數學や理學が出來なくては、學者にはなれないが、どうもわたくしが數學に疎《うと》かつたせゐか、伜も不得意のやうぢや。まああなたもどうか一つ指導してやつて下さい。」
 老人はさう云ふ風な話題ばかりを求めて話したが、そのうち、それならば今夜ゆつくりお話をしませうといつて立ち去つた。
 老人が去つた後で、青年は少し居ずまひを崩した。それでもまだ一種の緊張した心持で、少し窮屈らしく風景の寫眞帖を眺めてゐる。
 その時靜かに人のけはひがした、「ようお出でになりました。」と聞えないほどに言つてしとやかに挨拶するものがある。青年がはつと感じて後ろを向くと年わかい美女が居る。顏だけは知つた顏である。富之助の姉である。それで客も禮儀正しく挨拶を返した。娘は疊んだ浴衣《ゆかた》を置いて、之れとお着かへになりませと言つた。そして暫時手持無沙汰にしてゐたが、また淑《しとや》かに立ち去つた。
 客は一種の情動を感じたらしい態度をした、そしてまた風景の寫眞帖を眺めてゐる。
 日が漸く暮れる。女中が竹の臺のランプを持つて來る。それでも富之助はまだ來な
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