島を一つ。」
自分が――宛もない――と思つたのは間違であつた。三味線の二階の下の店からは(そこは渡し舟の賃を取る所だつた。)急に人も見えないのに返事が聞こえた。
「二つですか?」
「一つ!」
「お釣りぢやあ無いんですか?」
「二銭!」
と高く答へた。まだ敷島が八銭の時であつた。
少時らくして年老いた男が客を一人載せて渡し舟を突いて居た。釣と煙草を女に渡して、それからまた、もうそこに集つてゐた二三の客をまた舟に載せて岸を離れた。その時自分も、昔の浄瑠理に出さうな舟にのつて、眠むたい三味線の音律をきき乍ら老人に竿を突かして、薄きカアマイン色に曇つた春の空気を岸のあなたに渡つた……
人は屹度こんな筋もない話を笑ふであらう。然し鋭敏な官能で、且近代の芸術に慣れた人の空想力はよく自分の不十分な描写を補つて呉れるのであらう。自分は安んじて更にまた話を続ける。
ああ自分はどうかして、せめてはかの日比谷公園の九月下旬の曇つた朝の枯草の匂ひを形容して見たい。柵で囲まれたやや広い方形の園の中には、秋のやや黄ばんだ雑草が思ひ思ひの空想に耽つてゐるやうに匂つて居た。昔の黒田清輝先生のスケツチに屡く
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