ある午後、自分は云ひ難き憂愁に襲はれて、独り寂しく深川の小溝の縁に立つた。不動様の裏手に当つて居る所であつた。
 春の日の午後三時は油の如く静かであつた。細い雨もしばし途切れて、空の一部には雲の色が黄色になつた。向ふ岸の家の軒には、一面の材木、中にも新しい檜はかの甘い匂ひを春の重い空気のうちへ流すかの如く見えた。黙つて水の面を眺め乍ら、自分は向ふ岸の新しい二階から漏れる長唄の三味線の音を聴き澄んだ。単調な絃のリズムが流れまた淀む。子供にでも教へて居るのかしらん、時々同じ節を繰り返す。蒸すやうに温い――また柔かな頸に圧されるやうに重い春の午後の空気のうちに、自分は夢みるやうに、一種の軽い疲労を感じながら、耳に来る節々に少さき時への聯想、まだ残つてゐる昔の空想を一々結びつけてゐた。
 忽ち自分の後ろから女の人が来た。(こゝはまた渡し場であつた。)黒い襟に、赤つぽい唐桟の袢纏を着た若い女が渡し場の桟橋の端に立つた。女は軽く両手を挙げる。さうして人を招くやうな手付きをして、かの三味線の方角に呼びかけた。
「ちよいと、ちよいと、もし。」
 女は宛もない人を呼ぶ。
「ちよいと、ちよいと、あのね、敷
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