Sらず家は狹く汚く、主人も粗服だと云ふ事を賞讚したことである。東京では隨分大きい仲買所でも仕拂を多少づつ遲れさす、即ちそれ丈人の金を融通しておくのである。大阪に至つては厘錢の微もきちんきちんと始末し盡くすと云ふ事である。若し東京の人が大阪へ出て商賣するやうな時には極めて正直にしなければならぬ。少しでもずるい事があつたなら、その點には鷹のやうに鋭い眼を持つて居る大阪人は直ぐ觀破して決して相手にしない。而もさう云ふ事にかけての團體力は支那人のやうに強いからどうにもならないと云ふやうな事を語つてをつた。
「あれですからねえ」と前の棧敷に指さして、「御覽なさい。かう云ふ所へもああやつて家から瓶《びん》に入れて酒を持つて來るんです。そして火を取つて自分で暖めて飮むんです。貴方、あの座蒲團なんぞも風呂敷へ入れて家から運んで來たんですよ。」と云つた。
 予は、大阪の演藝類の見物の廉價であると云ふ事を以て之に應じた。現に文樂などでも、後ろの方は十二錢出せば一日聽いて居られるのである。又劇場には東京の如く一幕見といふものが無く、東京の大入場にあたる所がその代り十錢か十五錢である。
「大阪人はまた實にのんきなものですな。あんな所で一日幕合の長い芝居を不服もなく見物してゐるんですね。」とその男が云つた。
 其間舞臺では、強く誇張された人相を刻まれたので、其爲めに一方には頗る漫畫的に見えるが、同時に、巧みなる人形遣の爲めに隙間なく動かされるので、却つて其不安定な動的の表情が運動の眩惑を助ける所の人形が怒つたやうな顏で泣いて居た。
 何處の所だつたか、攝津が「お前と手分して尋ねようと思うて云々」と語ると、棧敷のそこここで忽ち多くの手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンカチ》が眼にあてられたのであつた。黄ろい貧血的の、やや老女に似る顏容の印象を呈してゐる絃の廣助までも、泣き顏になつて一生懸命に三味線をかぢくつて居た。予は此時近くの人の「廣助はんの絃ぢや到底追ひ付けまへんな」といふやうな批評を聞いて、本當にさうなのかなどと思ひながら例の Illusion と 〔De'sillusion〕 との世界を彷徨して居たが、唯予の前の棧敷に居た六七歳の男の子は、何と思つたか、ずつと背伸びをして、惘然《ばうぜん》と不可思議の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つて、かの未だ知らざる情緒海のあなたを眺め入るやうに見えた。
「アイ、笈摺《おひずり》もな、兩親《ふたおや》のある子やゆゑ兩方は茜《あかね》染……」の一段になつて、予も始めて、はつと幻想の世界に落ち込んだやうな心持がした。今迄概念的に味はつて居た十郎兵衞住家の悲劇も、兩親があるから笈摺の兩縁が茜染だといふ特殊の事實の描寫が、阿片のやうに瞬間的に予の自覺を濁らしたと見える。手づから本物に觸るやうな藝術的實感を味はふ事が出來たのである。それから「からげも解かず、笈摺も掛けたなり」と云ふ處で、また小さいシヨツクを感じた。再びありありと、勞れ切つた小さい順禮のむすめが眠るといふ有樣が想像せられたのである。
 折角の處だつたが時間の制限があるから外へ出たが、何か自分でも支配する事の出來ないやうな腹立たしさが湧いて居たのに氣が付いた。
 その夜神戸に歸つて床に就いた後に、久し振で聽官の幻覺に襲はれた。つひぞ、かういふ事は十四五歳の後には味はつた事が無かつたのに、暗く交睫《まどろ》みつつある心の表に突然三味線が鳴り出したり御詠歌が聞えたりするのを、半ば無意識に聞くといふ事は、然し兎に角愉快な事であつた。(四月三日京都にて。)

 急用が出來て今夜の急行で東京へ歸らねばならぬやうになつたのは尠からず殘念である。せめて今夜までの時間を京都で暮さうと思つて今朝この市《まち》に入つた。奈良、堺などはどうでも可いがもつと深く大阪を味はひたかつた。少くとも鴈治郎の藝を東京座の花道や猿之助との一座などでなく、大阪のあの舊式な劇場の空氣の中で見物したいものであつた。東京の芝居で見られない何者かをそこで搜しうるに相違ない。なんといつたつて上方の文明は三百年の江戸の都會教育よりずつと根柢が深いのであるから、大阪人は江戸東京人よりももつと人生といふことを知つてゐる筈だ、粹といふやうな言葉が江戸でなく上方で作られたのは偶然の事ではないだらう。
 京都へ入つては先づ第一に停車場で坊主にあつた事を異樣に感じた。そこから四條へ出るまでに眞鍮の蝋燭臺を賣る暗い店、大牛、河の柳、數多き旅館及び古風の橋などが視感を動かした。是等の景物に寺、塔、舞子のだらり及び人力車上の西洋婦人などを加へれば、略京都の情景を想像することが出來る。
 黒田清輝氏の「小督物語」は偶然路上に遭遇した人群から暗示を受けたといふが、僧侶、藝子及び舞子、嫖客、草刈の少女等は眞に京都的の 〔Ele'ments〕 である。而も其布局が昔の繪卷物の風俗畫を思はしめ、その思付が謠曲によくある物語の風(たとへば道成寺の前のシテの白拍子の後のシテなる――事實上は時間的に以前の――蛇を暗示するといふが如き)で直接歴史的風俗畫を避けて尚或情趣を添へるといふ點で更に意味あるものとしたのである。而も其純繪畫的觀相がまだ西洋臭いといふ對照があの繪をまた一層面白くしたのだと思ふ。
 今の京都の生活から、然し一枚の風俗畫を作り出さうとする場合には西洋人は缺く可からざる一要素であるといはねばならぬ。横濱神戸はさる事ながら、京都と異人とは、今はもう切つても切れない中となつたのである。
 三十三間堂の暗い中に數多き金色の觀音が立ち並んでゐる。天井の大きい燈籠がそこに定かならぬ光明の輪を畫いてゐる。『人皇は七十七代後白河天皇御建立、……千一體のうちに三萬三千三百三十三體の觀音樣が拜まれます』……と唄ふ案内の小僧のねむたい曲節《メロデイ》の中にも、色斑らな女異人の一行があまり似付かはしくもなく見えるのである。
 博物館で鎌倉から信長の時代へかけての色々の縁起物の繪卷物を見た。浮世繪に次いでは是等の風俗畫が大に予の心を喜ばしめる。如何なる時代でも平民の生活及びその藝術化ほど予の心を惹くものはない。
 大谷光瑞師の寄贈にかかるといふ、支那トルキスタン庫車内トングスバス發掘の塑像佛頭といふ土の首は予の心臟を破らむほどに美しかつた。(四月三日朝京都にて。)

 今、人と四條橋畔のレストオランに居る。都踊の始まるまでの時間を消す爲めに、一つには自ら動く勞なくして、向ふで動いて呉れる京都を觀る爲である。
 中には始めから二人の西洋人が居た。直ちに獨逸人であるといふ事のわかる重い發音で會話してゐる。それからその連れらしいのが二人來た。
 この背景としての窓の下の四條橋下の河原では、例のコバルト色に見える人の群が、ずらりと並べ干された友禪ムスリンを取込むのに忙殺せられて居る。
 面《おもて》の平でない玻璃《ガラス》の爲めに、水|淺葱《あさぎ》に金茶の模樣が陽炎を透かしての如くきらきらといかにも氣持よく見える。一列の布の上に、遙かに黒き、其輪郭は廣重的に正しい梅村(?)橋が横はつて居る。草はもう不愉快に日本的に黄ばんでるが、その側に、明紫灰色の小石の上に干された黄や紫や淺葱の模樣の幾列かの布との間に、一種の快き色彩の諧調を作り出して居る。河原の水際には澁紙で貼つた行李が二三箇積まれてある。そのそばで話しながら二三の人が仕事をして居る。或者は何かしらん齒車仕掛のものを頻りと※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して居る。或者は黒いズボンのままで川へはひつて樺色の長い布を引摺出してくる。或者はまた懸け弔るした淺葱の友禪を外して二人で引張つては、それから互に相近づき、更に元より近く相離れ、更に復近づいて、かくて二つに疊まれたものは四つに、四つのものは八つに疊まれ十六に疊まれて石の上に置かれる。そして竿の間に張られた綱に隙間が生じて來ると川からの人が、更に色の變つたムスリンをだらりと弔るすのである。
 京都や大阪の町、及びそこの形態的生活は友禪的に色斑らに、ちやうど抱一が畫いた菊の花瓣のやうに綺麗である。然しここの生活だけは乳金、代赭《たいしや》、群青《ぐんじやう》の外にエメロオド、ロオズマツダア等を納れ得るのである。あの布を干す二三人の群を目の粗いカン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]スに取つたら嘸《さぞ》愉快の事だらう。
 もとよりその外に祐信や清長の見方が出來る。祐信の繪本に、炬燵にあたつて居る女の傍に小鍋立のしてある繪があつた。門の外は降りつむ雪で、ちやうど男が傘をつぼめた所である――河沿ひの低い絃聲のする家の窓から河原の布晒を見るのは此の趣味であらう。然しかう云ふ事をかくと予自身に此|遊仙窟《ルパナアル》に對する憧憬があるやうに思はれて不利益である。“Olenti in fornice”はホラチウスの領分であるやうに「祇園册子」は吉井勇君の繩張である。
 目の下に見える四條の橋を紹介しよう。「鴻臺」といふ酒薦の銘が大形に向河岸の屋根を蔽うてゐる。そこに赤い旗があつて白く「豐竹呂昇」と染め拔いてある。まだ燈の點かぬ仁丹がものものしげに屋根の上に立つ。欄干の電燈の丸い笠は滑石《タルク》の光澤で紫色に淀んで居る。その下を兵隊が通る。自動車、人力、荷車、田舍娘の一群が通る。合乘に二人乘つた舞子の髷が見える。かみさんの人が下女を連れて芝居の番附を澤山に手に持つてゐるのが通る。二人の女に、各一人の男が日傘を翳《さ》しかけてやつてゐるのが通る。あれは祇園の家々の軒を「ものもお、ものもお」と紙を配りながら大聲で誰とかはんのお妹はんが云々と呼んでゆく人達であらう。青色の橋の欄干に女異人が二人立つ。もう少し日が暮れたなら正にヰツスラア情調中の人となる可きものであらう。
 京都の女の相貌は複合寫眞の美しさのやうに思はれる。深い刻みや、個人性が消えてぼつとした Morbidezza がお白いの下から覗く。
 ああ河岸に始めて燈が點いた。予等は之から歩かねばならぬ。
「おお、ねえさん、それぢや勘定!」(四月三日、京都にて。)

 二つ三つ妙な光景を見た。君は予が京都でピエエル・ロチイ的の見方をするのを喜ばぬかも知れないが、京都といふものの傳説から全く自由な予は、どうしてもかくの如き漫畫派的羅曼的に見ないわけにゆかぬ。たとへば都踊の中の茶の湯なんかは實に此の見方から愉快の場所だ。殊に異人が此滑稽のアクサンを強くしてくれる。
 僕等には到底我慢の出來ない七面倒くさい儀式で茶が立てられた。身なり、動作に對應せぬ童顏の小さい女達が茶を配るとき第一の大きな茶碗が最端の年とつた異人の前に置かれた。
 それに對した側には色斑らな上衣及びスカウトの西洋婦人の一群が好奇の目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて「チヤノユ」の珍妙の手續を見て居たが、今第一の茶が同邦人の前に配せられた時一齊に手を叩いた。老いたる異人は顏を赤めて快活に笑つた。
 兎に角女異人(その對照として黒の裝束の男達も可いが)と舞子の群は、その共にでこでこした濃厚の裝束で西班牙のスロアアガの畫もかくやと思はれる美しい畫面を形造るのである。それに蝋燭及び電燈の光が一種の雰圍氣を供給して居る。
 一人の慾張りなばあさんが近隣の二三の人から團子の模樣のついた素燒の菓子皿を貰ひ集めた。するとその近くの西洋人の一群が、自分のも皆んなそのばあさんにやらねばならぬと思つたと見えて、その方へ運びためたので、少時にしてばあさんの卓の上には十數個の皿や食ひ掛けの饅頭が集つて、堂内は忽ちどつと一齊に起る笑聲の海となつた。意味を解しない異人達は自からも赤い顏になつて笑つたのである。
 若し夫れ是等の雜沓中で、いやに通を振り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]す氣のきかない一大阪人を巧みに描寫したならば、確かに、膝栗毛以上のニユアンスの藝術を作り出す事が出來るだらう。この餘りに粹でも意氣でも無かつた大阪人は、大都會の人といふ自慢と、恣なる言行とで、屡多くの人の反感と嘲笑とを招い
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