泄烽キるのは京都を歩くより愉快だ。京都は常に多くの漫遊者を扱ひ慣れて居るから、旅人として向ふに氣が付かせずに、その横顏《プロフイイル》を覗き込むといふことは出來ない。そして畫家の目を牽く光景に舞子と異人といふやうな粗い對照も少くは無い。夫れに反して大阪はいかにも古風の老舖の如く、古いままで固まつてゐる。
 道は氣にかかるほど狹く、それに應じて屋根も低い。蒲鉾屋は例によつて紅緑の色蒲鉾を並べ、壽司屋の鮨の配列、鳥屋の招牌の澪標《みをつくし》、しるこ屋の行燈、饂飩屋の提灯までもみな草雙紙の表紙のやうな一樣の趣味から出來てゐるのである。
 南區のある通りには紅で塗つた質屋の格子戸の外に「心學講話、藤澤老先生經書御講義」などといふ札さへ見られた。昨日は曇天が燻《いぶし》銀の色調であつた。神戸から大阪までの平原の間に、枯草と青草との心臟を冷すやうに氣持のいい色の調和を見た。(四月二日、大阪圖書館にて。)

 昨日大阪へ來たらちやうど醫學會大會といふのがあつたから、こつそり忍び込んで此嚴肅な光景を眺めた。大澤老博士が、短い白髮の黒のフロツクコオトと云ふ扮裝で、三千の聽衆の前に現今の生理學の進歩を講演せられて居る所であつた。
 それからそこを出て復大阪の市街を歩いた。大阪|通《つう》の君が一緒に居たら、更に、視感以上の大阪に侵入することが出來て愉快であつたらう。
 大阪にはうち見る所一種類の階級しかない。と云ふと餘り誇張に流れるが、兎に角ここが町人の町であるとは普通の意味で云ふ事が出來る。だからして此町の店頭に浮世繪が似付かはしく、義太夫が今も尚此市の情緒生活に intime になるのだと思ふ。電車などに乘つても乘合は角帶の商人で無ければ、背廣の會社員である。人の話に、官吏なども大阪へ來ると往々商賣人に化《かは》つてしまふと云ふ事である。
 京都を歩いて居ると無用のものが多く、だだ廣《ぴろ》くて直《ぢ》きに可厭《いや》になるが、大阪に至つては街區のどの一角を仕切り取つても活溌な生活《ラ・ヰイ》の斷片を掴む事が出來るやうに感ぜられる。京都は――恰もそこの藝子《げいこ》舞子《まひこ》のやうに――偏へに他郷人の爲めに市《まち》の計《けい》を爲してゐるやうに見えるが、大阪は、また其一見不愛想な商人の如く、他《ひと》には構はないでひたすら自家の爲に働いて居るのである。だから千日前でも道頓堀でも、束京の淺草、京都の京極其他などに見られない一種の面白味がある。生活が手輕で實用的なのだ。たとへばその街區の數多き飮食店の如きも大阪見物の他郷人よりも同じ町の人の氣散じに便利に出來て居るやうに見える。且東京とは違つて遊樂の街區が略一箇所に集中してゐるからして、この市の鳥瞰は東京のやうに散漫でなくつて、一つの有機體《オルガニズム》としての大阪市の形態及び生理を味はしめる。
 燈が點いてから千日前の雜沓を、旅人の――他郷人の心持でなくこの市《まち》の一市民としての親しみを以て歩く事が出來た。そしてここの雜沓と、この褻雜《せつざつ》なる興行物がどんな必要《ネセシテ》を持つて居るかと云ふ事を知る事が出來た。
 汚い戲場と視官を刺すやうな色斑らな看板繪――大阪にはまだ淺草のやうに安いペンキ繪は入《はひ》つて居ない――三味線、太鼓及びクラリオネツト、かくて春日座の「兵營の夢」、第一大阪館の「河内次郎」、榮座の「住吉踊、稻荷山」、日本館の活動寫眞、常盤座の「忠臣藏宣傳」、女義太夫竹本春廣、其他釣魚、落語の類が人間の需要の反射として更に行人を誘惑して居るのである。
 短い時間で成る可く廣く大阪を見ようと云ふ欲望から、一刻も休まず歩き、出來るだけ興行物と云ふやうなものを覗いてみた。播重といふ寄席も、嘗つて君に話を聞いた事もあつたから一時間許り入つて見た。表の看板には「全國女太夫、修業發表機關」といふ今樣の云ひまはしの大文字が書き付けられてあつた。まだ顏の輪郭も固らない、世の中の事も碌に知らない十四五から十七八の女が、複雜な淨瑠璃の文句、またその内の藝術化せられた情緒情熱に關して深い理會のあるのでもなく、――差し迫つた何等かの藝とは全く別の必要からして――それでも愁嘆場の文句なんぞは多少の自覺した表情と、及び發聲の困難からの苦面《グリマツス》とで、同じく調子の合はぬ絃に伴はれて齒を剥き目をつぶるのを見るのは眞に可憐である。而して同時にこの生理的誇張が聽衆の特殊の興味《アンテレエ》を惹起すると云ふ事を知ると世の中の機關《からくり》に對して頗る樂天的な觀相を抱かしめられるのである。
 然し|首の習作《エテユド・デ・テエト》のモデルとして見る場合には又別種の面白味がある。ロダンの「|泣く女《ラ・プレエレエズ》」のやうな表情は罕《まれ》ならず遭遇する所である。若し夫れ皮肉なるドガアの畫題を搜し出すと云ふ事は既に予の領分外である。それはもつと深い透徹《ペネトラシオン》を要する。予は君の短篇《ノヱル》の類集《セリイ》に待たねばなるまい。
 此間に予は突然濁つた太い聲に驚かされたのである。「竹ちやん、竹ちやん、待つてましたあり――」といふ言葉が其瞬間に理會せられた。人はみな忽ち其方へ視線を轉じた。蓋し豫定喝采者の類であつたらう。餘りに年の寄つた銅色の顏の老爺が火鉢の縁を指先で撫でながら何も知らぬやうに俯《うつむ》いてゐた。其對照が既に滑稽以上であつたからして、轉じられた視線は豫期に反した弛緩の感じを以て再び舊に戻るやうに見えた。
 予は藝術を[#ここから横組み]△Illusion+△Connaissance[#ここで横組み終わり] といふものの極限《リミツト》として觀相しようと常々思つてゐるのである。舊《もと》の美學は唯藝術の假感の極限の場合をのみ論じて居るやうに見える。肉聲が織る曲節《メロデイ》、曲節の底を漂ふ肉聲――たとへば斯くの如き二つの軸の間を動搖する所に藝術鑑賞の心理作用が求められねばならぬ。或は此くの如きは完成せる――人を幻影の境に引いてゆく藝術を有せざる時代の人の思想ではないかと反問せられたなら予も亦返答に窮するであらう。藝術感及び實感の交錯は芝翫の八重垣姫、茜屋のお園の演伎の際、屡※[#二の字点、1−2−22]東京座や歌舞伎座の大入場の喧噪として現はれたものである。
 今の場合に於ても若し多少美しい女の太夫が、義太夫聲に雜《まじ》る實《じつ》の女の鼻がかる音聲で「これまで居たのがお身のあだ……」と云ひながら輕く右手の扇子で左の掌を打ち、膝の上に身を立たせるやうにして目を不定につぶりながら、何かを囘想するやうな表情《エキスプレシヨン》で滑なタンポオで唄ふと云ふやうな事があれば、多くの見物人は必ず其感動を拍手か意味のない呼び聲に現はすのであつた。何となれば此《ここ》は全く愼《つつしみ》といふ事から放たれて居た場所であつたから。若し一個の藝術的洞察者があるならばロダンの依つて名聲を博した所のものを又日本の材料から作り出す事が出來るのは勿論である。
 道頓堀へ出たら辨天座の前が大變賑かだつたから又はひつて見たくなつた。中々幕が開《あ》かなかつた。開《あ》いたら大阪の觀客に媚びる東京芝居の仕出しで一向つまらなかつたから直ぐそこから出た。
「まあまあ高麗屋が一でせうな。」
「左團次もようがつせ。」
「どつちとも云へまへんな。」
と云ふやうな會話を聞きながら――。ここの出方は紋付の縞の着物を着た女だつた。これらの女に使用せらるる大阪言葉は揮發的《フイユジテイフ》で、その語勢は油の流れるやうだつた。
 昨日午後道頓堀の通りを何か化粧品の廣告の囃が通つた。それが柳か何かの佐和利の節を鐘や太鼓でちんからころりとやつて行く所は、流石は大阪と大に感心した。萌葱《もえぎ》の短い前垂の女中が後ろを振り返つてそれを見入り、銕丹染《べにがらぞめ》の風呂敷の番頭はんも足を停め、茶屋の前で二三人の女中が手を組み合はせて眺める所は、宛然として浪華風俗畫卷の題目であつた。
 肩衣《かたぎぬ》を賣る店を市中で屡《よく》見出したが、その際予は未だ嘗つて知らなかつたところの「市中漫歩者の情調」に襲はれた。唯それ丈でも大阪は好《すき》である。況んや汽車に乘り合はせる人、煙草の火を借せる人が、みんな藝事《げいごと》の話の分らないのがないに於てをや。(四月二日、大阪圖書館にて。)

 今日の午過ぎ大阪の圖書館へ入つて見た。借りようと思つた本は皆、ちやうど特別の陳列の爲めに出てゐるので見られないのは遺憾であつた。それから「松の落葉」といふのも元祿の小唄を集めたのではなくて、例《いつ》もの藤井何とかいふ人の隨筆集であつた。
 後に無理に陳列室の内へ入れて貰つたら、手に觸るる事の出來ない玻璃の陳列棚の中に「浪華歳時鏡」「新板豐年拔參宮」「道頓堀出がはり姿なにはのみそ(?)いせのおしろい」「新町根里毛農姿番組」「なにはぶり」「浪華青樓志」「大阪新町細見圖」「淀川兩岸勝景圖會」「畫本四季の友」といふやうな風俗畫の畫本が並べられてあつた。かかる種類の本は、安永天明から天保の頃にかけて江戸には汗牛充棟も啻《ただ》ならざる程あるが、京阪には比較的少いやうである。元祿時分のは多少あるかも知れぬ。
 この暗い部屋の中で偶然上方の粹といふ言葉と江戸の意氣といふ言葉とに考へ付いて、前者が心理的なるに對して後者の著しく外形的(形態的)であると云ふ事に氣がついた。西鶴、近松の類と洒落本、草雙紙の類と比較して兩都のそのかみの文明を推論したならば面白い事だらう。(四月二日夜神戸行電車中。)

 昨日の午飯は兼ねて人に聞いて置いたから梅月とかいふ天麩羅屋で食つた。いつもなら純粹の大阪人をここに見られるさうであるが、今日は時が午より遙かに遲れて居たから「だす」「おます」の言葉で相場の噂も聞く事が出來なかつた。
 それからもう遲かつたが文樂へ行つて見た。君の印象記での覺えもあり、一年有半で讀んだ事もあり、何かしら大へんの所だと思つて居たが、あまり予の胸にはしつくりと來なかつた。はじめの「釋迦誕生會」などは近松の作だと云ふが愚なものである。實は予は東京では間に合はなかつたから印度王の原稿を今度一緒に持つて來たが比芝居を見て燒いてしまひたくなつた。然し二番目の攝津|大掾《だいじよう》の阿波鳴門の出語りは予に一種の「整復の音の感味」を味はしめたやうに思はれた。然し予のこの感じがどれ丈までトラヂシオンによつて來て居り、どれ丈まで自家の理會及び感情投入から來てゐるかは定かに云ふ事が出來ぬ。予は予の音樂の「耳」をあまり信頼して居ない。故に呂昇の壺坂を感心したのが本當に感心す可き所にしたのか、將た今また攝津の藝術にやや窮屈な壓迫を感じたのが予の耳の罪であるのかも分かつ事が出來ぬ。
 唯攝津の年齡と優雅なる其容貌及び絃の廣助の顏などが、予に一種のロマンチツクな崇敬の心をこの藝術家に對して抱かせたと云ふ事は事實である。眉毛の長い七十の翁の温藉なあの表情はそれまでの長い間の藝術的生活が刻んだものだと思ふ毎に一種のサンチマンタアルな情操の動くのを感ずるのであつた。この際予が爲した二つの首のスケツチは幸ひに隣席の客の賞讚を買ひ得た。
 予の隣の桝《ます》は東京の客だつた。一人は五十に近い、町家の主婦らしく、道徳的な而もやや意氣な顏付をしている女であつた。予はその人から大阪見物の感想を聞くことを得たが、大阪へ來ると自分はもう隱居しようと云ふ氣は全く無くなつて、人は死ぬまで働かなければならないと思ふやうになると云つて居たには妙な感じを抱かさせられた。意外な、處にも似付かはぬ、いやに道徳的な感想であるが、その連れの三十過ぎの同じく商人體の男がその註解をしてくれたので會得する事ができた。東京から大阪へ來ると東京の商業はまるで子供の惡戲《いたづら》だと云ふやうな氣がするといふ事から説き起して、大阪の人の時を愛《を》しみ、金を崇ぶ事を語り、(不幸にして折角の名を逸したが)或大阪の(恐らく日本一だらうと云はれてゐる)一老株屋の店の印象を語つた。予の今覺えて居る處は、そんな大きい店なのにも
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