京阪聞見録
木下杢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)此《ここ》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)舟|筏《いかだ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)例の Illusion と 〔De'sillusion〕 との世界を
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 予も亦明晩立たうと思ふ。今は名古屋に往く人を見送る爲めに新橋に來てゐるのだ。待合室は發車を待つ人の不安な情調と煙草の烟とに滿たされて居る。
 商標公報といふ雜誌の[#「雜誌の」は底本では「離誌の」]綴を取り上げて見る。此《ここ》に予は一種の實用的な平民藝術を味ふ事が出來て大に面白かつた。殺鼠劑の商標に猫が手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンカチ》で涙を拭つて居る圖は見覺えのあるものであるが、PARK 公園などと云ふ石鹸は餘程名に困つた物と見える。それでも二つの概念を心理學的に乃至藝術的に聯絡させてゆくと、俳句などとは違つたまた一種の興味あるのを知るに至る。其他化粧品に菖蒲と翡翠《ひすゐ》との組合せがある。怪しい洋人の移寫したやうな字で「サムライ印」とかいふ騎馬武者の木綿織物の商標は、予をして漫ろに横濱のサムライ商會の店頭の裝飾を想起せしめた。是れ亦確かに西洋人に映つた日本趣味の反射であらう。「櫻山」と云ふ清酒がある。「吉野」といふのがある。かう云ふのはよく今迄他の人が附けずに置いたものだと感心する。道中姿の華魁《おいらん》の胸から腰にかけて「正宗」とやつたのは露骨であるが奇拔である。Bacchus Venus と雙方を神性にする西洋の思想に對照して考へると更に一段と面白い。鶫麹漬といふのは何と讀むのかしらむ。電車の全形を圖案に仕組むなどは素人は大膽なものだ。
 天明頃の「江戸町中喰物重寶記」といふ本を見た事がある。その中の屋號《やじるし》や紋所や簡單な縁《ふち》を附けた廣告を思ひ出す。當時有名だつたといふおまん鮨などの廣告を見ると一種懷しい妙な心持になる。神社佛閣に張る千社札を三卷の帖に集めた好事家の苦心に驚かされた事があつたが「日本廣告畫史」などを完成するやうなのん氣な時代はいつ來る事やら。さう云へば立派な浮世繪史さへまだ碌々に出來て居ないでは無いか。(三月二十九日神戸にて。)

 昨夜神戸に入る前に日中京都で暮した。けれども今何も目に殘つて居るものとては無い。あれば唯河原の布晒し位のものだ。庚申《かうしん》橋とかいふ橋の下に大小紅紫いろいろの友禪の半襟を綱に弔るして居たのが、如何にも春らしく京都らしく好い氣持であつた。も一つは黒田清輝さん流のコバルト色の著物の男が四斗樽へ一ぱい色々の切《きれ》を入れて、それをこちこちと棒でかき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して居たのを見た。背景に緑を斑入《ふい》れにして灰色の河原の石の上に、あちらこちらに干されたる斑らに鮮かな色の布。こんな景色は澤山見られた。然し京都では、たとへば一人の人が河原に仕事をしてゐて、五六の人が惘然《ばうぜん》とそれを眺め入つて居る所も、油繪のやうには見えないで、却つて古い縁起ものの繪卷物の一部を仕切つたやうに見えるのである。京極の方から迷ひ込んで何とかいふ長い市場の通りを歩いたが、その兩側の家の、たとへば蒲鉾屋の淡紅淡緑、縞入りの蒲鉾、魚屋の手繰《てぐ》りものの小鯛、黒鯛、鰺、魴※[#「魚+弗」、第3水準1−94−37]《はうぼう》の類はいかにも綺麗に並んで居るが、然し決してカン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]スとテレビンで取扱ふ事の出來るものでは無い。やはり祐信、春信等の趣味である。
 だから三條四條邊の町でよく見られる骨董店の英山、歌麿の類は、今の東京で見るより、こちらで見た方がいかにも當然で、居る可き所に居るやうに見えるのである。
 燈が點いてから三條から四條へ出る河沿の通りを歩いて見た。「未墾地」のネシユダノフがロココ趣味の老夫婦が家に入る時の心より更に不思議な情調に捉へられた。もう柳の間から水に映る燈が見られた。
 いろいろの人を訪ねたが誰にも會ふことが出來なかつた。其晩神戸に入つた。(三月二十九日神戸にて。)

 こつちへ來る前にHYと君の居る桶屋さんの家を訪ねたが生憎お留守で殘念であつた。その前にもひとりの人と三人で中澤弘光氏の工房を尋ねて、それから君の處へ行つたのである。
 京都見物の前に中澤さんの所で「京都の豫感」を、實は味はうと思つたのだが、生憎京都のスケツチはみんな板彫の方に※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて居たので見る事が出來なかつた。僕等は決して自然の景情を絶對的な自分の眼といふもので見る事が出來ないのだ。餘程其時代を支配してゐる大家に便つて居るのだ。たとへば春さき灰緑に芽ぐんで來る佃《つくだ》島の河沿の河原の草などを見る時分には、どうしても黒田さんの樣風《マニエエル》を想ひ出さずには居られない。東京の自然界で黒田さんと廣重との配調《アランジマン》を味ふのを、京都で祐信と中澤にしようと思つたのだが、中澤さん情調を吹きかけられることの出來なかつたのは遺憾であつた。
 其代り氏の温泉スケツチの類集《セリイ》は見る事が出來た。温泉といふものは官能的にも固《もと》より愉快なものだが、更に繪畫の標準に換算しても亦面白いものでなければならぬ。白い裸體と紫色に澄んだ泉の表面とを主調とした色彩畫派的《コロリスチツク》の色彩諧調は思ひ出した丈でも食欲をそそる。
 氏は油で浴泉圖をかくのだと云つて居られた。丹前風呂とか羅馬の浴場とか云ふものは、蓋し爛熟せる文明の窮極である。然し凡ての平俗を嫌つて珍奇を求める Degas の非情なる觀察眼が今の此國にも許されるならば、この種の畫題はむしろ町の生活に於て取られた方が面白からうと思はずには居られなかつたのである。纖弱《かよわ》い肩胛骨《あふぎぼね》は彫刻にも效果《エツフエエ》のある者である。更に温く曇つた水蒸氣の中に「白の調和」は一層善く、色彩畫家《コロリスト》のカン※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]スに向くと思ふ。清長の珍らしい浴泉圖は二枚あつて、その一枚がドガアの手に入つてゐると云ふ事は上田柳村先生の「渦卷」で承知してめづらしい事と思つた。(三月二十九日神戸にて。)

 二十九日、三十日、雨。三十日の午過ぎに始めて空が霽れて來たから人と神戸市中を見物したが一向つまらなかつた。横濱にはまだ所々予の所謂「異人館情調」が殘つて居るけれども、神戸にはそれすら一向に無い。市中所見の物象は鉛直に非ざれば水平、水平に非ざれば四十五度六十度角で人の目の前に迫つて居る。近く見える西洋館から遠くの船舶の檣、港の起重機、棧橋上の鐵道荷車、各種の煙突、正午報知臺等が皆それである。色彩の方では煉瓦、屋根の瓦、ペンキ塗の羽目板、偶※[#二の字点、1−2−22]はポプラスの繁り、それからそれらの凡てに亙つてゐる金屬的灰色の空氣の調子である。街上の美人と稱す可き人相《フイジオノミイ》にも出くはさない。立派な店を張つてゐる家の主人や番頭の顏もまだ都會化せられて居ないで、獰《あら》い植民地的の相貌を呈して居る。看板の東京風とか江戸自慢とかいふ形容詞がいかにも田舍臭くて不愉快である。
 東京ことば、大阪、京都、伊勢、中國邊の方言の雜ぜ合せにドス、オマス、ナアなどといふ語尾を附けると略《ほぼ》神戸の言葉に近くなる。
 奇事奇談《キユリオジテ》といふやうなものにもあまり出遇はなかつた。ただ昨日神戸兵庫間の電車の試運轉があつて榮町は人立がしてそれを眺め入つた。神戸などは高い異人館があつていかにもハイカラらしいが、かういふ光景を見ると、明治初年の清親、國輝などの名所繪を見るやうで馬鹿馬鹿しくてならぬ。
 昨夕《ゆうべ》も近所の湯にいつたら電車の噂で持ち切りであつた。汽車には踏切番といふものがあるが電車にはそれが無いから、子供等には危險だと一人の男がいふと、番臺の女房が「ほんにさうどすな」と相槌を打つてゐた。(三月三十一日朝、神戸にて。)

 昨日は大阪へ來て一日暮した。それまでは毎日雨で芥舟學畫篇だの沈氏畫塵だのを讀ませられて大分支那情調になつて居た所を、昨日一日で全く洗ひ落して仕舞つた。その日の午前中はそこのあらゆる賑かな通り、河岸、橋梁等の光景を見て歩いた。予は都會の形態的標準は橋梁に存すると思ふ。京町から平野橋、それから今迄の道に直角に歩いて思案橋、博物館、農人町、住吉町の通りから道頓堀に出て、それから中の島まで引返した。大阪の河岸の印象は東京とは大分違ふやうだ。ちよつと話した丈ではこの細《こまか》い官能的印象の相違は傳へられない。
 大阪の河岸は夏は黄ろい羽目板と簾《すだれ》とで持ち切つて居るのであるが、それでも、たとへば尼ヶ崎橋から上下を見通した所のやうに白壁の土藏も少くは無い。東京のやうに煉瓦は多くない。白壁には小さい窓が二つ乃至四つ五つ附いて居て、それが多少暗示的な何物かを持つてゐる。白壁にはよく酒の銘が塗り上げられてある。屡《よく》見るのは福翁、白鶴、金霞、○○正宗、それに波に日の出の朝日ビール。
 尼ヶ崎橋に立つて不圖《ふと》東京の今川橋に居るやうな氣になつた。あの橋の手前の河岸縁の家にまさきか何かむくむくと繁つた常緑の樹があつて、それに夏からの風鈴が雨に濡れたままに弔《つる》されて居た事を記憶してゐる。ここは兩側の家、今の倉庫を除けば河に面した兩側には主に玻璃障子を立てた家が並んでゐる。それに小さい欄干の附いた出窓が張り出て、松や萬年青《おもと》や檜などの盆栽が置かれてある。赤い更紗の風呂敷(これは今は東京ではめつたに見られない、風呂敷として染めて重に赤地へ黒と白との模樣があるもの)それから襁褓《おむつ》といふものが軒下に干されてある……といふやうな錯雜した景色の後ろに――大阪風の棟數《むねかず》の多いごたごたした屋根の群の上に遙に聳やぎ立つ物干《ものほし》が見える。物干には幾聯となき手拭がひらしやらと風に搖れてゐる。今川橋でも同じ樣なものが見られた。而も三代目かの廣重の繪にも取られてある所を見ると、昔の鳴海《なるみ》の宿の鳴海《なるみ》絞りを懸け弔す店と同じく、少し繪心のある人の心を惹くものと見える。
 堀は東京より水が綺麗だ。材木の舟|筏《いかだ》、肥料桶の舟などが悠々として櫂で橋下を漕ぎ拔けてゆく。橋の上でスケツチなどは到底出來ない。大阪の橋は皆西洋工學以前の代物と見えて、鐵の欄干の橋でさへ、一の車、一の馬力が來る毎に氣味の惡い程ぐらぐらと搖れるのである。
 京屋町から平野橋に行く例の狹い賑かな通りの、或古本屋の表に浮世繪の廣告が出て居たからはひつて冷かして見た。多分飜刻物であるが、中の一枚の春信(のであつたか)の行水を使つて居る女の肉附《モルピベツス》は素敵であつた。後に衝立を立ててそれに着物が懸けてある。その前で例の春信型の線の細い輪郭の、例の顏容《フイジオノミイ》の女が盥《たらひ》で湯を使つてゐるのであるが、その線は寫實的であつたから不快ではなかつたが、ロダンやマネの素描の知的な冷たさに代へて、柔かく、唯單に肉體の輪郭を仕切るといふ必要以外の艶冶《あだぽさ》を見せようという作意の爲めに、全體がやや浮世繪的官能的になつたのはやむを得ない。
 外に歌麿や湖龍齋の板畫があつたがつまらなかつた。皆《みんな》十年許り前の獨逸行の飜刻物であるやうだつた。ああいふ繪はそれで澤山だのに、それでもなほ原物を求めたがるのは、希有《ラアルテ》を崇ぶといふ外に何かわけの有る事だらう。――江戸の浮世繪は現に大阪に於ては東京に於けるよりも似つかはしい。それから又大阪を
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