情緒海のあなたを眺め入るやうに見えた。
「アイ、笈摺《おひずり》もな、兩親《ふたおや》のある子やゆゑ兩方は茜《あかね》染……」の一段になつて、予も始めて、はつと幻想の世界に落ち込んだやうな心持がした。今迄概念的に味はつて居た十郎兵衞住家の悲劇も、兩親があるから笈摺の兩縁が茜染だといふ特殊の事實の描寫が、阿片のやうに瞬間的に予の自覺を濁らしたと見える。手づから本物に觸るやうな藝術的實感を味はふ事が出來たのである。それから「からげも解かず、笈摺も掛けたなり」と云ふ處で、また小さいシヨツクを感じた。再びありありと、勞れ切つた小さい順禮のむすめが眠るといふ有樣が想像せられたのである。
折角の處だつたが時間の制限があるから外へ出たが、何か自分でも支配する事の出來ないやうな腹立たしさが湧いて居たのに氣が付いた。
その夜神戸に歸つて床に就いた後に、久し振で聽官の幻覺に襲はれた。つひぞ、かういふ事は十四五歳の後には味はつた事が無かつたのに、暗く交睫《まどろ》みつつある心の表に突然三味線が鳴り出したり御詠歌が聞えたりするのを、半ば無意識に聞くといふ事は、然し兎に角愉快な事であつた。(四月三日京都にて
前へ
次へ
全32ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 杢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング