フ思想ではないかと反問せられたなら予も亦返答に窮するであらう。藝術感及び實感の交錯は芝翫の八重垣姫、茜屋のお園の演伎の際、屡※[#二の字点、1−2−22]東京座や歌舞伎座の大入場の喧噪として現はれたものである。
今の場合に於ても若し多少美しい女の太夫が、義太夫聲に雜《まじ》る實《じつ》の女の鼻がかる音聲で「これまで居たのがお身のあだ……」と云ひながら輕く右手の扇子で左の掌を打ち、膝の上に身を立たせるやうにして目を不定につぶりながら、何かを囘想するやうな表情《エキスプレシヨン》で滑なタンポオで唄ふと云ふやうな事があれば、多くの見物人は必ず其感動を拍手か意味のない呼び聲に現はすのであつた。何となれば此《ここ》は全く愼《つつしみ》といふ事から放たれて居た場所であつたから。若し一個の藝術的洞察者があるならばロダンの依つて名聲を博した所のものを又日本の材料から作り出す事が出來るのは勿論である。
道頓堀へ出たら辨天座の前が大變賑かだつたから又はひつて見たくなつた。中々幕が開《あ》かなかつた。開《あ》いたら大阪の觀客に媚びる東京芝居の仕出しで一向つまらなかつたから直ぐそこから出た。
「まあまあ高
前へ
次へ
全32ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 杢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング