m#二の字点、1−2−22]はポプラスの繁り、それからそれらの凡てに亙つてゐる金屬的灰色の空氣の調子である。街上の美人と稱す可き人相《フイジオノミイ》にも出くはさない。立派な店を張つてゐる家の主人や番頭の顏もまだ都會化せられて居ないで、獰《あら》い植民地的の相貌を呈して居る。看板の東京風とか江戸自慢とかいふ形容詞がいかにも田舍臭くて不愉快である。
 東京ことば、大阪、京都、伊勢、中國邊の方言の雜ぜ合せにドス、オマス、ナアなどといふ語尾を附けると略《ほぼ》神戸の言葉に近くなる。
 奇事奇談《キユリオジテ》といふやうなものにもあまり出遇はなかつた。ただ昨日神戸兵庫間の電車の試運轉があつて榮町は人立がしてそれを眺め入つた。神戸などは高い異人館があつていかにもハイカラらしいが、かういふ光景を見ると、明治初年の清親、國輝などの名所繪を見るやうで馬鹿馬鹿しくてならぬ。
 昨夕《ゆうべ》も近所の湯にいつたら電車の噂で持ち切りであつた。汽車には踏切番といふものがあるが電車にはそれが無いから、子供等には危險だと一人の男がいふと、番臺の女房が「ほんにさうどすな」と相槌を打つてゐた。(三月三十一日朝、神戸にて。)

 昨日は大阪へ來て一日暮した。それまでは毎日雨で芥舟學畫篇だの沈氏畫塵だのを讀ませられて大分支那情調になつて居た所を、昨日一日で全く洗ひ落して仕舞つた。その日の午前中はそこのあらゆる賑かな通り、河岸、橋梁等の光景を見て歩いた。予は都會の形態的標準は橋梁に存すると思ふ。京町から平野橋、それから今迄の道に直角に歩いて思案橋、博物館、農人町、住吉町の通りから道頓堀に出て、それから中の島まで引返した。大阪の河岸の印象は東京とは大分違ふやうだ。ちよつと話した丈ではこの細《こまか》い官能的印象の相違は傳へられない。
 大阪の河岸は夏は黄ろい羽目板と簾《すだれ》とで持ち切つて居るのであるが、それでも、たとへば尼ヶ崎橋から上下を見通した所のやうに白壁の土藏も少くは無い。東京のやうに煉瓦は多くない。白壁には小さい窓が二つ乃至四つ五つ附いて居て、それが多少暗示的な何物かを持つてゐる。白壁にはよく酒の銘が塗り上げられてある。屡《よく》見るのは福翁、白鶴、金霞、○○正宗、それに波に日の出の朝日ビール。
 尼ヶ崎橋に立つて不圖《ふと》東京の今川橋に居るやうな氣になつた。あの橋の手前の河岸縁の家にまさき
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