ゥ何かむくむくと繁つた常緑の樹があつて、それに夏からの風鈴が雨に濡れたままに弔《つる》されて居た事を記憶してゐる。ここは兩側の家、今の倉庫を除けば河に面した兩側には主に玻璃障子を立てた家が並んでゐる。それに小さい欄干の附いた出窓が張り出て、松や萬年青《おもと》や檜などの盆栽が置かれてある。赤い更紗の風呂敷(これは今は東京ではめつたに見られない、風呂敷として染めて重に赤地へ黒と白との模樣があるもの)それから襁褓《おむつ》といふものが軒下に干されてある……といふやうな錯雜した景色の後ろに――大阪風の棟數《むねかず》の多いごたごたした屋根の群の上に遙に聳やぎ立つ物干《ものほし》が見える。物干には幾聯となき手拭がひらしやらと風に搖れてゐる。今川橋でも同じ樣なものが見られた。而も三代目かの廣重の繪にも取られてある所を見ると、昔の鳴海《なるみ》の宿の鳴海《なるみ》絞りを懸け弔す店と同じく、少し繪心のある人の心を惹くものと見える。
堀は東京より水が綺麗だ。材木の舟|筏《いかだ》、肥料桶の舟などが悠々として櫂で橋下を漕ぎ拔けてゆく。橋の上でスケツチなどは到底出來ない。大阪の橋は皆西洋工學以前の代物と見えて、鐵の欄干の橋でさへ、一の車、一の馬力が來る毎に氣味の惡い程ぐらぐらと搖れるのである。
京屋町から平野橋に行く例の狹い賑かな通りの、或古本屋の表に浮世繪の廣告が出て居たからはひつて冷かして見た。多分飜刻物であるが、中の一枚の春信(のであつたか)の行水を使つて居る女の肉附《モルピベツス》は素敵であつた。後に衝立を立ててそれに着物が懸けてある。その前で例の春信型の線の細い輪郭の、例の顏容《フイジオノミイ》の女が盥《たらひ》で湯を使つてゐるのであるが、その線は寫實的であつたから不快ではなかつたが、ロダンやマネの素描の知的な冷たさに代へて、柔かく、唯單に肉體の輪郭を仕切るといふ必要以外の艶冶《あだぽさ》を見せようという作意の爲めに、全體がやや浮世繪的官能的になつたのはやむを得ない。
外に歌麿や湖龍齋の板畫があつたがつまらなかつた。皆《みんな》十年許り前の獨逸行の飜刻物であるやうだつた。ああいふ繪はそれで澤山だのに、それでもなほ原物を求めたがるのは、希有《ラアルテ》を崇ぶといふ外に何かわけの有る事だらう。――江戸の浮世繪は現に大阪に於ては東京に於けるよりも似つかはしい。それから又大阪を
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