閧烽ネき憧憬の念に滿された。若しも自分の戀人がああして遠く去つてゆくのを見たならば、きつと人はこがれ死《じに》に死んでしまふに相違ない。」と書いてある。今も昔も人の心に變りはないと思はれる。
 予が窓下に、昔讀んだ事があるといふ記憶を唯一のたよりに、かの紀行の内からやうやうこの頁を搜しあてた頃には、既に海は暗く、向《さ》きの船影は既に見る可からざるに至つた。旅行記の面白さは、例へば陸游が入蜀記の土地の景物を舒し舊址を弔ふ文などの末に、晩に大風となり船人纜を増すとか、夜|雨《あめふ》るとか、蚊が多くて、始めて復た※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]を設けたとかいふ短い言葉で、唯時の關係より外には全く聯絡のない事を書いてあるので、却つて躍然と旅中の趣が目前に彷彿たるに至ると同じく、ゲエテの上記の感傷的な記述の直ぐ次の行には、今は巽風《シロツコ》が出たから、是れが強くなつたらモロの邊の波は一入興深い事だらうなどと書いてあるから、如何にもこの詩人の多情な性格と南歐の風物とがよく見えるのである。
 閑話休題《あだしごとはさておき》、松浦佐用姫、鬼界が島の俊寛などの物語にも同じ心持がはひつて居
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