ツた。家が途切れた時大きい船の腹が見えたが、ちやうど強い夕日に照り付けられたのであるから、黒のペンキは怪しい褐色に光り、殊に赤い窓の扉はきらきらと事々しく輝いて居た。甲板上の船客も亦一々分明に見わけられたが、知らぬ人の旅ながら、出て行くものを見送るのは何となく心さびしい。少時《しばらく》の間に船は遠くなるのである。さうすると、とろりとろりと最後の笛を鳴らす。水平に近《ちかづ》く頃には、ちやうど八月の青草の中に一つ開いた落花生の花のやうな黄ろい燈をともしたのである。
千七百八十七年三月二日ナポリにてとある日附のゲエテが伊太利亞紀行の中にも同じ心持が書いてある。「海及び船舶も此地に於ては亦全く別種の面目を呈して居る。」といふ當り前の書き出しから、前日強い北風《トラモンタアネ》に送られてパレルモに向けて航行したる弗列戛艇《フレガツテエ》の事を報じ、「かの風なれば今度の航海には三十六時間以上はかからないだらう」と推察を下したりなどして居る。「かの艦の滿々と風を孕んだ帆がカプリとミネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の岬との間を走り、遂に何方ともなく姿をかくしたのを見送つた時、予の心は限
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