海郷風物記
木下杢太郎

−−−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蕭《しめや》か

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)其他|天草《あまくさ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつた
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

 夕暮れがた汽船が小さな港に着く。
 點燈後程經た頃であるからして、船も人も周圍の自然も極めて蕭《しめや》かである。その間に通ふ靜かな物音を聞いてゐると、かの少年時の薄玻璃《うすはり》の如くあえかなる情操の再び歸り來るのではないかと疑ふ。
 艀舟《はしけ》から本船に荷物を積み入るる人々の掛聲は殊に興が深い。
「やつとこ、さいやの、どつこいさあ。」
「やれこら、さよな――。」
 と、その「さよな」といふ所から、揃つた聲の調子が急に下つて行くのを聞くのは、眞に悲哀の極みである。諸ろの日本俗謠の暗潮をなす所の一種の哀調が、亦此裡に聞き出されるからである。
 強ひて形容すれば、銅青石《アヅリツト》の溶けてなせるが如き冷き冬の夜の空氣の内に――その空氣は漁村の點々たる燈火をもにじませ、將た船の鐘の徒らに風に驚く響にさへ朗かなる金屬の音を含ませる程にも濃いのであるが――そのうちに、かの「やれこらさよな、やこらさのおさあ。」を聞かされるのであるから。
 それからまた船が出て行くのである。人と自然との靜かなる生活の間を、黒い大きな船が悠然として悲しき汽笛を後に殘して航行を始める。
 そのあとに、まだ耳鳴りのやうに殘つて居る謠《うた》の聲や人のさけびは、正に古酒「LEGENDE」の香ひにも、較ぶれは較ぶべきものであらう。(明治四十三年十二月二十九日伊豆伊東に於て)

 海濱に於ける人間の生活とそこの自然との交渉ほど、予等の興味を引く自然觀相の對象は蓋し鮮い。鹿兒島は久しく他郷と交通を謝絶して居たから其風物は甚だ珍らしいさうであるが、予は未だ漫遊の機を得ない。其他|天草
次へ
全19ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 杢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング