sあまくさ》、島原等の九州の諸港でも、紀州沿岸の江浦でも、近く房州、伊豆等に於ても、天候や地勢や生業等の諸條件を稍等しくして居るものの間には、亦必ず共通な人間生活及び其表現を見出し得るのである。ゲエテが古い伊太利亞紀行を讀んでも、殊に其エネチア、ナポリ、シシリヤ等の諸篇は同樣の興味からして予等の膝を打たしめるのである。
温和なる氣侯が彼等を怠惰にする。荒海の力と音とに對する爭が彼等の筋肉を強大にし、其音聲を太く、語調を暴くする。それにも拘らず、常に遠く人里から離れて居る彼等の生活が夫婦間の愛情を濃かにする。誰かあの岩疊の體格、獰猛な顏容の裡に此種の sentimentalisme を豫期しよう。が、同時に、海濱に於ける作業に必然要求せらるる共同生活が、仕事の責任者を無くすと同時に仲間同志の思遣りを深くすると云ふ事は確かである。年寄つた漁夫は小さい子供等を始終叱責して居るけれども、其粗暴な言葉の裏にはきつと快活な諧謔を潜ませて置くのである。この共同生活が實際また、かの渡り鳥や旅行者の心安さのやうに、生活と云ふものを如何にも愉快さうなものにして居る。そして又青い――青い彼方から雲のやうに湧いて來る他郷の船舶、新しい貨物、知らない人々や、その方言乃至珍らしい物語や時花歌《はやりうた》を迎へるのに慣れて居ると云ふ事が、彼等の心を非常に romantique にし、且容易に妄誕を信ぜしむるに至る。そこで「海坊主」「船幽靈」の話が生れる。また荒れた日に水平線に立つ水柱を「龍」といふ奇怪な生物の力に歸せねば止まぬのである。將又この羅曼底《ロマンチツク》が實生活にも働くのである。で彼等は祭典を華美にする。其儀式を莊嚴にする。例へば、偶然海岸に漂着した櫛をも――それが橘姫の遺愛の櫛だなどとして――神社に祀る。神主はしかつめらしくそれに和田津海の神社と云ふ名を命ずる。案内記を書く人は古老の傳説を事可笑しく誇張して、櫛漂着一件の考證をする。けれども無學の漁夫や其息子たちはそんな事は知らないから、此神社を龍宮さんと呼び※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]はせる。それも音を訛つて「りゆうごんさん」にしてしまふのである。然しまたそれからして、反つてこの神社の正體が橘姫の櫛でも、浦島の玉手箱でもなく、「海」だ――限も知らぬ海だ――彼等素朴なる漁夫に(人間の心の約束上、自然)さう解釋
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