して、翌日の同新聞の論説欄にこの事を掲げてひどくこの会を攻撃したのである。
パンの会も此時最高潮に達したのであつた。その後段々と衰へた。
(その時代の空気を示す為めに一寸追記する。十一月廿六日、神田青柳にて古書即売会。北斎絵本東遊、六円五十銭。吉原青楼年中行事、四十五円。駿河舞、五円。西鶴好色一代男、三冊、百円。元禄十六年板(?)松の葉、帙入美本、十四円。哥麿七変人、三枚百円。豊広浮絵、五円。
見物一浮世絵を見ながら連れの人に曰ふのには「あの似顔なざあ、子供のおもちやになつてたのでさあねえ。」
黒田清輝のまだ盛に活飛した時代で、白馬会には其「荒苑斜陽」など出た。)
明治四十四年(一九一一)にはパンの会は段々落寞なものになつてしまつた。
二月の十二日には浅草のヨカロウで開き、そこのかみさんが演説などした。
同年六月五日、月。神田の新しく出来た(都とか云つた)西洋料理屋でパンの会を催した。この日には内田魯庵氏も出席せられた。ドストウエフスキイの事、甎のことなどに就いて語られたと記されてある。小山内君がどこかで酔つて来て大元気であつた。生田、島村、喜熨斗、平出、萱野の諸氏が御
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