にも都門を去つて遠く任に赴《おもむ》く人さへも出來て來た。會者定離《ゑしやぢやうり》の悲が葉櫻の頃には心を動かした。

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「ふるき仲間も遠く去れば、また日頃顏合せねば、知らぬ昔とかはりなきはかなさよ。春になれば草の雨。三月、櫻。四月、すかんぽの花のくれなゐ。また五月にはかきつばた。花とりどり、人ちりぢりの眺め。※[#「※」は「あなかんむり+「聰」のつくり」、第3水準1−89−54、261中−16]《まど》の外の入日雲。」
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 さう云ふ述懷を作つたことがある。後に山田耕筰君が作曲してくれ、ラヂオでも時々唱はれた。もはや其時の感傷もなく、他人事《ひとごと》のやうに知らぬ人の歌ひ彈ずるを聽聞《ちやうもん》した。
 殊にひそかに此歌を獻じた一友とは、大正末年以後唯二囘遭遇しただけである。一生のうちにも一度會へるかどうか疑はしい。會つたところで、往事、黒田清輝先生の處からその「小督《こがう》」のデッサンを借りて來て互に感奮して話し合つたやうな氣分は到底|釀《かも》し出されぬのであらう。

 所がすかんぽの話に後日譚が湧出した。それがまたこの藥袋《やくたい》も無い雜文を書く機縁にもなつたのである。
 僕は滿洲時代以後植物の醋葉《すいば》を作る道樂を覺えた。然し決して熱心な蒐集家ではなかつた。唯往年支那を旅行して集めたものは、當時理科大學に勤務してゐた大沼宏平さんと云ふ老人に鑑定して貰つた。この人は學者ではなかつたが、アメリカのヰルソンなどと云ふ人が、日本の植物を採集に來た時も案内者に選ばれたほどで、日本の植物の名をば好く知つてゐた。支那産のものは屬名は分つても大半は、直ぐと種名は判じ難かつた。「支那南北記」や「大同石佛寺」のうちに植物の事を顧慮することの出來たのは、洵《まこと》に是人のお蔭である。
 東京に出てからは、朝比奈泰彦教授の引合せで久内清孝君を識ることが出來、僕の植物採集は始めてまちやうになりかけ、學生を使嗾《しそう》して一緒に採集に出かけたりしたが、一つは年齡のゆゑ、後には時勢のゆゑで、折角の樂しみは成育を礙碍《がいがい》せられた。
 昨年以來はこの乏しい知識に、時節柄、實用性を與へようと思ひ、食べられる野草の實驗に指を染めて見た。もう救荒本草《きうくわうほんざう》※[#「※」は「類」の「大」が「犬」、第3水準1−94
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