ふしたと云ふのである。然し其戸棚はコップのしまつてある戸棚ではなかつた。下男と女中とが話をしながら臺所の庭にはひつて來た。
「おはつ、正吉が鹽をこぼした。片付けてやんなさい。」
 下男は、假にここに正吉と呼ぶことにした僕の顏を見て笑つた。僕の企《くはだて》を推量したのであらうと思つた。此下男は一昨年、僕が始めて東京に往つたとき、僕をおぶつて山越をした男である。峠の山ばたで「すいは」といふ灌木の葉を取つて僕に食はしたことがあつた。その「すいは」と云ふのはここに云ふすかんぽ[#「すかんぽ」に傍点]ではない。はつきりとは覺えてゐないが、どうだんつつじ[#「どうだんつつじ」に傍点]のやうな小さい葉であつたと思ふ。
 臺所の煤《すす》でてらてらと黒光のする大きな戸の表には、赤と黒との字の刷られた柱暦が貼つてあつた。
 さうして外へ出て、兼ねて打合はせて置いた場處で惡少と會ひ、一緒に低い岡に登つて行つたのである。道端には小さな川が流れてゐるが、水が甚だ好く澄んでゐる。今はもうさう云ふものが無くなつた。だが二十前年頃[底本ママ]までは、誰が植ゑたのか、ひとりでに生えたのか、葉の長い石菖《せきしやう》が繁茂してゐた。子供たちは無論、村の人も其名をば知らず、「めはじき」と子供は呼んでゐた。その花の穗を採つて屈《かが》めて、上下の眼瞼《まぶた》に張り赤目をする遊戲があつた。「めはじき」の名は多分それから出たのであらう。別に本當のめはじき[#「めはじき」に傍点]と云ふ草の有ることは後年に至つて之を知つた。
 このきれいな小川を見ると、「水番水を頂戴」と云ふ言葉が必然に思ひ出されるのであつた。母の話に、母がまだ少《わか》く、この道の上の禪宗のお寺の寺子屋に通つてゐた頃には、手習の水番と云ふものがあつて、この川まで水を汲みに下りたと云ふ。水番と云ふ制度は、われわれが小學校へ入る少し前までは、小學校にも殘つてゐた。
 菫《すみれ》と云ふ花をも此川の縁で覺えた。寺にお會式《ゑしき》の有つた春の夕、祖母と此坂路を降つて來ると、祖母が、「ああここにはこんなに菫が咲いてゐる。それが菫といふ花だよ」と云つて教へてくれた。花に嗜好を持つてゐたのではなかつたが、此紫色の小さい可憐な草花をばかくて夙《はや》くから覺えたのである。
 後年、ひめりんだう[#「ひめりんだう」に傍点]とほととぎす[#「ほととぎす」に
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