嫂
素木しづ
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)短篇集を袂《たもと》に入れて
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)森本先生が一|言《こと》彼女に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定、誤植の可能性等
(例)彼女は一所[#「所」にママの注記]に
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)彼女は、まだ/\云いたいことがあるのを
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
小さなモーパッサンの短篇集を袂《たもと》に入れて英語の先生からの帰り、くれてゆく春の石垣のほとりを歩きながら辰子はおかしくってならなかった。
今日ならって来た所の、フランチェスカといふわけのわからない女が、“What does in[#「in」はママ] matter to me ?”と、“Not at all”以外に、なに事もいはず、常に怒ってゐるのか、真面目になってゐるのか、わからないやうな態度と表情をしてゐるのが、をかしくってならなかった。
そして彼女が嫂《あね》の態度に対する不満と自分をあはれむかなしさとが、すっかりそのおかしさのなかに入ってしまった。
彼女は、まだかつて嫂を思ふ心におかしさを思ったことが一度もなかった。
「フランチェスカは、家の嫂さんとおんなじだわ、『結構です』と、『どういたしまして』、以外になんにも云はないんだもの。そしていつも、おかしいことも、かなしいことも、面白いこともないやうに、むっすりと黙ってゐるんだから。」彼女は、そう考へて、おかしくってならなかった。そして、辰子は、顔にまでそのおかしさを見せながら、何の気がゝりも心配もなく、家の玄関まで来てしまった。
彼女は、手をかけて玄関をガラッと開けた。そして、その音と同時に彼女はすっかり真面目になってしまった。敷石を静かに歩いて草履《ざうり》を、片すみにそろへてぬいだ。
嫂の部屋は、玄関の側にあった。辰子は、その部屋の襖《ふすま》の前に行って『只今』と手をついた。
『おかへりなさい。』
といつものやうに、部屋のなかゝら声がした。その声は、何等人の情にはかゝはりのない、木を折ったやうな、殺風景な音であった。辰子の心はすぐ淡い恐怖と不安とを抱いた。そして廊下をつたはって自分の部屋に行った。
辰子は自分の心が嫂
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