のことに対して、かなしむ時、必ず学校時代のことを思ひ出した。
辰子が、まだ女学校に居たころ、嫂はまだ彼女の家に来てなかった。そして新学期のはじまるころ、嫂のことをひそかに知り、またその嫂が、彼女の学校の先生になることを聞いたのであった。辰子はそれを聞いた翌日友だちと廊下で顔を合はせた刹那、ふと思ひがけない嬉しいことを、自分が知ってるやうな気がした。それで、彼女は驚いたやうに、瞳を輝かして微笑した。
『あのね。』辰子は、思はずよりそって云った、けれども、ついなんでもないことを云ってしまった。
『音楽室の方に行かなくなって。』
友だちは、なんの気もなしに素直に、彼女によりそったまゝ、すぐ音楽室の方に歩き出したのであった。それで、彼女は一所[#「所」にママの注記]に歩き出したが、彼女の頭のなかには、夕聞いたうれしいことが、不安に踊り初めてゐたのだ。
そして、彼女はいつか草履を引づりながら音楽室の前を、通りこした。朝早いので人もない廊下に、低いオルガンの音が、閉された扉のなかゝら流れて来てた。彼女は、いつものやうに爪先を見つめて歩いてゐた。
こうして、友だちと廊下から廊下へ黙って歩くのは、彼女たちの長い間のくせであったので、彼女はそのくせによって、いつのまにか歩いてた。そして運動場の窓際の椅子まで来て、腰を降ろした。
辰子は、もはやうれしいことでもなんでも[#「も」は底本では脱落]なくなった。話さなければゐられなくなった。
『あのね』彼女は、もう一度注意を引いた。
『山口さん、二三日うちに若い国語の先生が入らっしゃるんですって。』
彼女は、まだ/\云ひたいことがあるのをひかへて、それだけ云った。そしてもはや、自分の身家《みうち》のものに対するやうに、人の心持を気づかってたのだ。
『あら、そう、いゝ先生が入らっしゃるといゝけれども。』
友だちは、すぐあとをつゞけて云ったけれども、それ丈けしか云はなかった。辰子は、夕、母親の云った言葉をすぐ、思出してゐた。「お花も、お茶もお琴も、そして職業学校では、造花と裁縫をやったし、女子大学の方では国文科だったんだから――」その先生は、なんにも出来ない事はない、どうしてそれが悪い先生だらう。辰子は、すっかり信じてゐた。そして、その先生が自分の嫂さんになるのだ。辰子のうれしいことは、そのことであった。
『えゝ、それは』彼女は息ご
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