山な本が積みかさねてあった。辰子は、早速その本の一冊を借りやうと思った。
辰子は、縁を歩いて来た。そして縁の柱によったまゝ、手水鉢《てうずばち》のそばの紫陽花《あぢさい》の葉をちぎってた嫂は、そこを通りすぎやうとした。いつもの強いするやうな足音をして、つんとそったまゝ、その真面目なむっとしたやうな顔が来たのだ。辰子はまたふと、恐怖におそはれた。そして行きすぎてしまってから、つまったやうな声で、
『嫂さん。』と呼んだ。嫂は、黙って振りむいた。
『どうぞ、どんな本でも一冊借して下さいませんか。』彼女は、云った。
嫂は、そのまゝ部屋に入って行った。何事も云はないで、彼女が茫然したやうな様子をして立ったまゝで居ると、嫂はやがて一つの本を持って来て云った。
『なんにもありませんよ』。
辰子は、嫂から借りた厚い本を持って早速自分の部屋にかけ込んだ。
その本のなかには恋のあはれを黒染の衣につゝんだ滝口入道のことなどが書いてあった。清い空想に涙ぐむ彼女は、すっかり捕へられて読んだ。そして、その幻からやうやくはなされた時に、辰子は気がついた。そして驚いた。
嫂の赤いインクのラインは、恋になやむ時頼のあはれさに二重にも三重にも引かれてあったのである。
辰子は、なんとなく驚いてしまった。外形は、どんな人でも、人の感情といふものは、大方おなじものなのだ。
彼女は、思がけないやうな気がした。しかし心安さを感じた、そして、それと同時に、またふと嫂の真面目らしいむっとした、顔を思出すと笑ひ出したいやうな気になった。
しかし、辰子の笑ひは、単なる、おかしさに過ぎなかった。冷笑も嘲笑もなかった。また嫂の前で笑ふ丈の大胆さもなかった。笑ひは邪気のないものであった。その下により多くの恐怖と不安とがあった。で嫂の姿の見えない時に、辰子は邪気なく笑った。
彼女は、時々学校時代の自分のかなしみを思出して、あはれに思ったり等した。辰子はまだ嫂をいゝ人だの悪い人だのと批判することは出来なかった。只かなしいことが時々おかしいことにかはるばかりであった。
辰子は、そののち、嫂が夢二畫集を持ってることを聞いて借りた。彼女は幾度も、かつて見たものであったけれども。
畫集のなかには、まだ赤インクが見えた。センチメンタルな甘い哀愁や、悲哀や寂寥にも、点やラインが引いてあった。そして折々には、嫂自らの思出
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