人《ひと》に逢《あ》はふとは思《おも》ひませんわ。私《わたし》はたゞそつと自分《じぶん》が前《まへ》に殘《のこ》した足跡《あしあと》を、車《くるま》の幌《ほろ》の間《あひだ》からでも見《み》てくれゝばいゝんですもの。それでも、私《わたし》、どんなに悲《かな》しいことだらうと思《おも》ひますわ。[#「ますわ。」は底本では「ますわ」]只《たゞ》ね、そう考《かんが》へるだけでも、涙《なみだ》が出《で》そうなんですもの[#「ですもの」は底本では「でずもの」]。藻岩山《さうがんざん》が紫色《しゝよく》になつて見《み》えるだらうと思《おも》ひますの、いま頃《ころ》はね、そして落葉松《からまつ》の葉《は》が黄色《きいろ》くなつて、もう落《お》ちかけてる時《とき》ですわね。私《わたし》あの、藻岩山《さうがんざん》に三|度《ど》も登《のぼ》つたことがあるんですわ。』
まち子《こ》は、目《め》の前《まへ》に、すべての景色《けしき》が見《み》えでもするかのやうに、一|心《しん》になつて涙《なみだ》ぐみながら云《い》ふのであつた。すると、末男《すゑを》も、おなじやうに、
『俺《おれ》だつて、誰《た》れにも逢《あ》はふとは思《おも》はない、只《たゞ》あの石狩原野《いしかりげんや》だの、高原《たかはら》の落日《おちひ》、白樺《しろかば》の林《はやし》なにを考《かんが》へてもいゝなあ――それに五|月《ぐわつ》頃《ころ》になるとあの白樺《しろかば》の根《ね》に、紫色《むらさきいろ》の小《ちい》さいかたくりの花[#「かたくりの花」に傍点]が咲《さ》くなんていふことを考《かんが》へると、全《まつた》くたまらない。來年《らいねん》こそは、どうしても行《い》つて見《み》やう。
『本當《ほんたう》にね、どうにかして行《い》つて見《み》ませうね。[#「見《み》ませうね。」は底本では「見《み》ませうね」]私《わたし》は、ステイシヨンについたらすぐに、車《くるま》でお父樣《とうさま》のお墓參《はかまゐ》りに行《い》かうと思《おも》ひますわ。創生川《そうせいがは》ぶちから豐平橋《とよひらばし》を渡《わた》つて行《ゆ》くんですわ。あなたも、一|所《しよ》に行《い》つて下《くだ》すつて。』
『ううむ、行《ゆ》くさ。』
末男《すゑを》は、無雜作《むざうさう》[#ルビの「むざうさう」はママ]に答《こた》えて、
『俺《お
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