彼女の見当は当らない時はなくなった。そして、バタリと扉《ドア》の外に足音が止まった時には、おのづと緊張した愉快な顔色になって居た。
『如何です。お変りありませんか。』
 軍医は体温表を一寸見て静かに言った。お葉はその時きっと前の晩の足の痛かった事や、今朝の脊中の痛かったこと等が、なんでもない事のやうに消えてしまふので、[#底本では行頭一文字下げていない、50−4]
『いゝえ、別に、』と彼女は笑った。
 彼女は、楽しい夢ばかりを見た。友だちと手をつないで、賑やかな夜の街のきらびやかな飾窓をのぞいた事や、大ぜいで野原に遊びに行って楽しかった事などが、彼女の夢の世界に表はれた。お葉は、この病院に入る前、丁度椿のはなが咲く頃から床についたきり、土を踏むといふ事は勿論、畳を歩くといふ事さへ、柱によって立つといふ事さへ出来なかったのだけれども、夢には指の先すら痛む事はなかった。床の上にあを向いたまゝ空を見てると、枯れたやうな桐の木からグン/\と芽が出て、若々しい青葉がヒラ/\と風にゆられた。そして椿の花が次から次へとくづれて、土に落ちて行くのであった。彼女は、その時かうして床につく前に、母親と痛い足を引きずりながら九段の坂を降りて、神田の神保町の洋傘屋《かうもりや》で買った青磁色の洋傘《かうもり》が、一度もさゝれずに押入の中にしまってある事を思って、急に見たくなった。それですぐ母親にパラソルを出して貰ひ、それをひろげて後向に畳の上に置いて貰った。お葉はそれを横になってぢっと見た。縁から入って来て洋傘の上に流れる日の色をも見た。そして彼女は丁度野原に遊びに行って、遠く草のなかに自分の洋傘を置いて花をつみながら、振りかへったやうな心持がした。そして彼女は茫然《ぼんやり》した。その頃丁度彼女の妹が元気よく、靴の音を高く響かせて、生垣をめぐって帰って来るのであった。その靴の音が高く響いた時は、もはやお葉の眼はすべて曇って霞のやうにかすんで、なんにも見えなかった。涙が閉ぢた目蓋《まぶた》から、ボロ/\と頬をつたはった。
 それからお葉は、その洋傘を寝たまゝ手に持たせて貰った、そして自分で名残惜しさうにピチンと閉ぢて、早速丁寧に押入にしまはせたのである。けれども、彼女は決して一生自分が洋傘をさして、二つの足で気持よく裾をさばきながら歩く事が出来ないとは、夢にも思はなかった。赤い日を見れば、今にもその土を気持よくふむ事が出来るやうに思った。[#底本では行頭一文字下げていない、51−8]
 やがて、その頃彼女の寝てゐる、彼女の窓の格子から遠くの方に、真赤な、真赤な花が一ぱにさいた。それが毎日日の照る日も、雨の降る日も、燃えるやうに彼女の眼に入った。
『何んの花。』彼女はいつも誰ともなく訊いた。けれども誰もそれに答へる人はなかった。彼女は、どうしてもその花が知りたかった。そしてあの花はなぜあんなに赤いのだらうと考へた。
『欲しい。』彼女はまた言った。
『落ちたのでもいゝから、たった一つでもいゝから――。』
『柘榴だらう。』誰かゞさう言った。そして、その花はだん/\青葉にかくれて行った。そしてお葉は、水色の幕を垂れた釣台にのって、朝夕にニコライの鐘が枕にひゞく病室に入れられた。途中、『母ちゃん、お葬式《とむらひ》が通るよ。』と赤い羅紗の靴をはいた子が、家の中に駈け込んだのを、お葉は幕間《まくあひ》から見てゐた。それは繁華な電車通りであった。
 そこからこの釣台はまた煉瓦塀をまわって、この病室に入れられた。そしてもはやすべて、彼女の夢に見る世界は、一生近づく事なく隔ってるのだけれども――。
 やがて、彼女は気づかはしさと、ある淡い喜びとを持って輸送車に運ばれて、繃帯交換に行った。そして方々の室から出て来た輸送車の患者が、控室の前にたくさんあつまった。
 お葉は、まだ決して足を切断したのだとは思はなかった。手をいぢり顔をなでてすべての人と異る所のない完全なものだと思った。そして、あの中庭の芝生《しばふ》の上を自由に散歩する事も出来るし、愉快にあのベンチによる事も出来るんだと、庭の方を見て居た。そして、ふいと眼を横にやった時、窓際に置かれた輸送車の上の女が、なつかしさうに笑った。
『あなた、少しはよろしくって?』
 お葉は、驚いて、やうやく、『えゝ。』と答へて赤くなった。何といっていゝかわからない。彼女の輸送車は、そのまゝ交換所に引き入れられた。あの人は、もう交換がすんだのか、すまないのか、どの部屋に帰ったのやらも解らない。
 彼女は、その一日その女の人のことを考へた。そして重たい本を胸の上に開いて、彼女は五六頁を読んだ。
 それから、彼女は夜中《よなか》にいく度となく目を覚ました。そして暁がすべての幸福を彼女に齎すやうに、只一秒も早く空の白むのを待った。けれどもあまりに短時間内に幾度も目をさました時には、もうこの暗い夜が再び明けないのぢゃないかと恐れながら、白く垂れ下ったカーテンの奥に目をすゑて、しのびやかに訪れて来る暁の足音を聞かうとした。
 カラ、カラ、……カラカラ、……カラ……カラ彼女は、そしてこの音を遠くの闇の中から見出した時、もはや暁が近いと、断定する事を※[#「※」は「足偏+寿」、53−12]躇しなかった。車の音だ。それは確かに車の音だ。あけぼのゝ白ずんだ空の淋しい道を静かに、カラ、カラカラ……と車の音も絶え/″\に幾台かつらなった車の音だ。お葉は真暗な夜のなかに、両手を胸の上に置いて、車の音を聞いた。
 そして、はやく看護婦が、カーテンを巻き上げてくれゝばいゝと思ひながら、朝の冷たい白い清らかな空気が、自分の蒸されたやうな頬をつたひ、静かにねばりついたやうな生際《はえぎは》の毛をゆるがす嬉しさを考へた。彼女は、それから、夜中に目覚めて暁をまつ毎に、その音を聞いた。そして朝の近いことを考へたけれども、その車がなにをする車で、なんの為めに何処に行くのか、そんな事は少しもわからなかった。
 お葉は、その日も、また次の日も交換場で、この前言葉をかけた見しらぬ女に逢った。彼女は廊下の窓際に斜に置かれて、小雨のふる中に垂れ下った梧桐《きり》の葉の淋しさを眺めて居た。側には三十位の女が輸送車の上にあを向けにねて、自分の手の色をぢっと見てゐた。
 その時、交換場の中から、その女の輸送車が引き出された。その女は紫の着物を着て淡紅色《ときいろ》の袖口で顔をおほうて居たが、彼女の前に来て、ふっと驚いたやうに目を見開いた。そして優しくなつかしさうな瞳をしてお葉を見た。
『今日は、およろしくって?』
『えゝ。』彼女はまたあはてゝ、何も言ふ事が出来ずにうなづいて笑った。輸送車は、もう通りすぎてしまってた。お葉は、ベッドに戻ってからも、紫の着物を着てた女のことばかり考へられた。しかし病室は牢獄のやうに、一つ/\厚い壁にさへ切られて、隣の人さへわからない。
 彼女は、その女の美しい眼を考へた。美しい手を考へた。そしてその女は必ず幸福だらうと思った。そしてその女は物語のやうに美しい恋をしてる人だと考へて、なつかしくってならなかった。そして彼女は一日でも逢はないと心配でならなかった。丁度恋をしてるやうに物足らなくって淋しかった。そしてその時には、お葉には今病気をしてるといふ自覚は、ほとんどなかった。そして彼女がいまどれ丈けの絶望と、かなしみに捕へられるかもしれなかった。只疲れては眠り、人の顔を見ては微笑し、本を読んではいろいろ幻のなかに浸って暮らした。そして母親は、彼女がすべての経過がよく悲しみに捕はれないのを喜んだ。看護婦は彼女の心の強いのをほめた。しかし彼女は、自分の現在を少しも知らなかった。
 その晩、彼女は昼間の眠りの為めに夜は早くからめざめた。お葉は、いろ/\と昼逢った紫の女に送る手紙などをローマンチックに考へながら、前から車の音をきいてはゐたが、あまりに夜が長いのに、起き上る事の出来ない身体の痛みに悶えてゐた。
『ね、お母さん。』お葉は、母親が起きてるやうな気がしたので、何を言ふともなく声を出した。
『あの、車の音がきこえるのに、なか/\夜が明けないんだもの。』
『車?』母親は耳をすました。
『雨が、また降り出したんぢゃないかい。何時頃だらう。』母親が時計を見た時、まだ漸く一時半であった。
『まだ、なか/\だよ、もう少し枕をたかくしたら寝やすいだらうね。』
『ぢゃ、お母さん、あの車はそんなに早くから歩いてるの。』お葉には、あり/\と淋しい道を音をたてゝ引かれてゐる車が、目に見えてるのだ。母親は、お葉の枕を高くしながら、『あれは、雨だれが落ちる音ぢゃないか。』と言って不思議さうに娘の顔色を見た。
 翌朝、久し振りに美《うるは》しく晴れて水のやうな秋の光が、すべてを祝福するやうに流れてゐた。そして雨にぬれた木の葉がつやゝかに光ってゐた。お葉は御飯をたべ終った後、漸くの事で決心して書いた手紙を看護婦にたのんで、何処かの病室に一人でゐる紫の女に送った。が、すぐあとで彼女は後悔した、そして恥しさで赤くなった。紫の女は尊い詩のやうな美しい女なので、とても自分などの近よる事の出来ない人だと思ったのだった。やがて、看護婦は、細い封筒を持って帰って来た。お葉は、それをなにか恐ろしい出来事でもあるやうに気遣はしく、そっと開いてみたが、それはいつも輸送車の行きずりにかはす、『あなた、少しはおよろしくって、』といふやうな、優しさとなつかしさのある、そしてものたりない短い手紙にすぎなかった。お葉は、淡《うす》い巻紙にやさしく美《うるは》しくかゝれた手紙をいく度も繰り返して、すべて自分の存在を想像のなかにうづめてしまった。彼女はうれしかった。それから二人は、その日の事を書いては送った。看護婦の手を経て、歩く事の出来ない二人はなつかしい話しをした。
 ある日曜日に、お葉は起き上る事を許された。彼女はその時きれいなダリヤの花を持って来て呉れた友だちの帰ったあとで、母親にたすけられて、床の上におき上った。少しの嬉しさも喜ばしさもなかった。足が電気のやうに渦をまき、円い玉のやうに一秒も停止してる事が出来なかったので、涙をためて、又床の上に横になった。そして前のやうに眼の上に空を見、胸の上にダリヤの花を置いて、一つ/\を手に持ってぢっと見た。そして彼女は起き上る事が出来ないと思ひつめながら、あを向けに母親の顔をうらむやうに見詰めてゐた。けれども、毎日一度は看護婦か母親によって起き上ることをさせられた。下から見た部屋を起き上ってたてから見たすべての異《かは》り方や、目の廻るやうな不思議さは、次第々々になくなって来た。そして開け放した扉《ドア》の前を通る人などを見る為めに、自分から起き上る事を母に頼むやうになった。
 廊下を通る様々の人、それを起き上って見てるのが、どんなに物珍らしかったか解らない。そして、毎日唐人髷を結った下町の娘が小唄を口ずさみながら通るのが、どんなに彼女の心を引いたらう。
 さうしてゐるうちに時がたって行くと、お葉は歩く事を稽古しなければならなかった。歩く稽古、歩くのでさへ稽古しなければならないとは、どうした事だかお葉には解らない。黒塗の丁字杖がベッドの前に置かれてからは、彼女は毎日恨むやうな瞳をすゑて、どことなしに見つめて居た。あれをついて私はどうして歩くんだらう。私が足を切断したなんて、お葉は、その事ばかり考へた。そして看護婦が来る度に、どうして手術をするかとたづねた。
『いえ、そんな事はおたづねにならない方がいゝんですわ。』
 看護婦は、みな話さなかった。そしてお葉の手の美しい事、髪の毛の多いことなどを話して彼等は帰って行った。お葉は悲しくってならなかった。そして自分のはかない身の上を書いて、紫の女に送ったけれども、やはり淡《あは》いやさしいそして物たらない事しか、お葉には書いてよこさなかった。
『今日は。』彼女は毎日訊いた。
『えゝ手術日。』看護婦は、さう言って帰りに寄る事を約して出て行く。思はずも今日の手術の様子を話して、問はれたまゝに切断の事なども言ひかけようと
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