松なんですよ。』
彼女は、ふと松を見た。そしてそんな恐ろしい事実のある松も、この美《うるは》しい日に美《うるは》しい空の光にそびえてる事を思って、美しい日であるといふ不安に、心が淋しくおちつかなかった。
『まだ。』お葉の心は少し落ちついた。
『えゝもうぢき、あの杉浦さんは入歯を入れて居りませんか、入歯があったらみんな取って置かないとこまりますから。』
『いゝえ。』と彼女は、悲しさうに看護婦の顔を見ながら、『なぜ、』と問ひかへした。
『それはね、魔薬をかけたあとで入歯が咽喉《いんこう》に入ると危いから――。』
看護婦は深くは言はず、なだめるやうに答へた。
『それから指環は。』彼女が一寸《ちょいと》手を動かした時、指環が目についたので、お葉は少しもゆるがせにしては不可ないといふやうに、また看護婦の顔を見た。
『さうね、おまちなさい。取った方がいゝでせうね。』
真白な小さいそれ自身が花であるやうな美しい彼女の手の紅指《べにゆび》にルビーの指環《ゆびわ》は、あまりに幸福に輝いてゐた。青い空を背景に、彼女はあを向けに手を胸の上に上げて、幸福に輝く指環をぬいた。そして看護婦に渡した。お葉は、その指環をぬくに何の悲しみも持ってない。何の思ひ出も払ってない。それが恋人によってはめられた特殊なハートのこめたものではないから。
そのまゝまだ胸の上に置かれた淋しい手の指に、うすい指環のあとがついてゐた。お葉はそれを無心にみつめて居た。
やがて、おもたい戸の開く音がして、暗い廊下の彼方に蒼白く淋しい窓が見えた。そしてがら/\と車の音がして、死人のやうにすっかり顔の筋肉に力のない男が運ばれて行った。
『恐ろしい。』お葉のすべての五官は、出来る丈け小さくならうとつとめて、木の葉のやうに戦慄した。
『あゝ恐ろしい。』彼女は、それより以外になに物もなかった。そして下に掛けられたキャラコの白い布を引っ張って、生え際の所までかけた。その上に秋の日は動いて、白く光った。お葉の輸送車はうごき出した。
ガタリと音がした時、彼女は氷のやうにつめたい空気にふれて驚いて眼をひらいた。
周囲は真暗だ。なに物も見えない。彼女は、恐れてすぐ眼を閉ぢた。
やがて、またガタリと音がして、彼女は低い所におち入ったやうな気がした。そして暖かい蒸すやうな空気が彼女の身をつゝんだ。
そして、キャラコの布ごしに、すべてが淡紅色にはてなく見えた。彼女は恐ろしい。いそいで眼を掩ふ布を取らうとしたが、彼女の手が動かない。どこか遠くから、ゾロゾロと人の来る気配がする。彼女の手は漸くふるへて動いた。お葉の周囲は拡がった。そして驚く程明るく美しかった。天井は円く高くギャマンで張りつめられ、七色《しちしょく》に日光が輝いてゐる。そして置かれたすべての器物は、銀色《ぎんしょく》に冷たく光ってゐるのだ。この美《うるは》しい限りない恐ろしさ、彼女は暫くも見る事は出来なかった。逃れたやうな瞳を哀願的に左にめぐらした時、遠く見える部屋の彼方から白衣、白帽の医師たちがいかめしく歩いて来てゐる所だった。と、いつの間にやら、静かによって来た看護婦が、ガーゼの布をたゝんで、お葉の目の上に置いた。
お葉は、もうどうする事も出来ぬ、改めて不意打でもされるものゝやうに、医師《あのひと》たちがよって来たなら、どんな事をされるか解らない。殺されるんだと考へたけれども自分の身体は少しも動かない。心ばかりが、本当にポプラの葉のやうにふるへる。そして何処《どこ》からともなく、金属のふれ合ふやうな響を感じて彼女は、たえずおびえた。白い、そして軽いやはらかなガーゼが、霧のやうに上から二つの瞳をおさへつけてどうしても彼女の瞳をひらかせない。周囲の人の話し声が音となって彼女の耳に入る。お葉の心は静かに茫然《ぼんやり》となりかけた。その様な状態に彼女をある時間置いといたならば、お葉は自分自身の身体を一人で魔睡にかけてしまったかもしれない。
誰か、お葉の枕の方に来た。そして何か鼻のあたりに置かれたと思った時に、はっきりと声がきこえた。
『魔薬ですから、静かにしてらっしゃい。』
急に、変な香がした。そして静かにしようとあせればあせる程、息がせはしく苦しくなって行く。そして何か知らないものが、ゴクン/\と咽喉《のど》の中に入って行った。[#底本では行頭一文字下げていない、44−9]
そして、それがだん/\つかみ所のない苦しさにかはって行く。そして遠く隔った所に堪へられない痛さが起る。実際それは堪へられない苦しさと痛さだけれども、つかみ所がないのだ。自分の肉体の何処に起ってるのだか、手が、足が、頭が、胴が、目が、耳がどこにあるのやら解らぬ。そして、それが入り乱れて円い玉のやうなものになって行くと、周囲は真暗だ。
そして、それが丁度夜汽車のやうな機関の音が、真暗ななかにして、どん/\どん/\お葉の身体は運ばれて行った。けれども苦しいことは依然として苦しい。そしてその苦しさと速さが絶頂に達したと思ふ時に、ぼっと周囲はとび色の明るさになって、広い/\野原であった。彼女の身体は、その中に十重《とへ》、二十重《はたへ》にしばられて、恐るべき速力で何千里と飛んだけれども、その行く先はわからなくなった。すべてが無になった。お葉の意識はすっかり魔睡してしまった。彼女は何事もしらなかった。
カラ、カラ、カラ……どこからか輸送車の音がかすかにする。お葉は、それを知ってたが、自分はどこに居るのだか、何をしてるのだかもわからない。カラ、カラ、カラだん/\その音が近づいて来た時、漸く自分は輸送車にのって廊下を歩いてるんで、その音は自分の車の音だとわかった。けれども何物も見えない。彼女の瞳はにかは[#「にかは」に傍点]でつけられたやうに開く事が出来なかった。
それから、彼女はそっと抱かれてベッドの上にねかされたのも知ってゐる。そして周囲に母や兄や、親類の人看護婦などが見守ってゐることも頭に考へられぬでもない。母親の気づかはしげな声が、茫然《ぼんやり》と耳に入る。しかしお葉はまだ自分の手や足や胴がどこに置かれてあるのだかわからないし、自分が今何をして来たのだかも明瞭《はっきり》しない。
けれども、どことなしに不安が身をおそって来る、どうしても眼を開かなくちゃ不可ないと思ひながら、かすかに瞳を開けた時、周囲は霧が立ちこめたやうに淡暗く、人の眼がみんな強く自分を見つめて居た。
『お母さん!』彼女は、漸く母親を呼ぶ事が出来たが、その声は極めて力なく弱くって母親の耳に入ったかどうか解らない。急に思ひがけないやうな淋しさと悲しさが彼女のすべてをつゝんだ。その時医師は手と足に食塩とカンフル[#底本では「カンプル」、46−5]の注射をした。そして、その痛さによって初めてはっきりと声を立て得るやうになり、すべての意識が我に帰った。母親は枕元に彼女の額を冷し、乾いた白い唇をガーゼでしめして居た。
『もう、すんだの。』お葉は周囲を見まはした。しかし、あの恐ろしいことが、足を切断するなんていふ事が、すんだとは考へられない。只なにか、まだ/\易しいことが済んだのだと周囲を見まはした。
『熱い、あつい。』お葉は起き上ることも、動くことも出来ない。腰のあたりに大石をのっけたやうに千斤の重さがある。そして胸の辺りからずっとリヒカ[#「リヒカ」に傍点]が掛けられて、物々しく毛布がたれて居た。併し、足を失ったといふことが、どうして解り、どうして感じられよう。彼女の頭は、唯両足の重いといふより感じられなかったのである。
『熱い、あつい。』お葉は、両わきにだらりと下げた手を、氷の入った金盥《かなだらひ》のなかに落した。白く死んだやうな手に、冷たさがしん/\としみて行った。
母親は、あまりながい手術の間を身悶えして病室にまち、廊下を歩いては、『万一手術中に死亡の事有之候とも遺存これなく候』と手術契約書を出したことを考へて、もうあれが最後であったかもしれない。寧《いっ》そ若い身空で不具《かたは》となって生きるよりは、このまゝ死んで呉れた方がお葉の為めでもあり、また自分にもその方がいゝかもしれないなどゝ考へて居たが、かうして娘はベッドにねて居るが、何処にその恐ろしい変化が加へられたのだらうと思った。両手はやはりすこやかに延びて、指一本欠けてる所もない。何事もおこらない。何事もあったのではない、考へてた事すべては夢であったといふやうな気がする。母親は絶えずお葉の顔を見つめながら、彼女の乱れた生際《はえぎは》を冷たいタオルでぬらして居た。
次の夜がまた相変らずおそって来た。そして前の夜にもまして重苦しいながい夜であった。丁度沙漠を旅する人のやうに、熱さに苦しみながら、変化のない夜を只水を欲して居た。
彼女は幾度も/\母親を起した。そして母親がコップを持って廊下を出た時、耳をすまして遠くに氷をかく音を聞いた。そしてどんなに扉《ドア》のあくのを待ったかしれない。
胸の上にコップを置いて白い、然しやきつくやうな両手でつかんで、氷のかけを咽喉《のんど》に落した時、彼女は漸く浮き上るやうな気持ちになった。そして極めてわづかの夢を見ることが出来た。
それから、お葉は廊下の足音を出来るだけ気をつけた。そしてその足音がもしも、扉《ドア》の前にバタリと止って、扉の影からそうっと白衣が見えた時には、その看護婦の空想的な瞳をすがりつくやうに捕へた。そしてコップにまたわづかの氷を願った。彼女は目覚める度に時間を聞いて、時があまりに静かなのに不安でならなかった。
『あゝまだ夜があけない。』お葉は眠らないので疲れ切ってた。しかし夜が明ければ自分が疲れからすっかり逃れる事が出来、さわやかに美しい日が来るやうな気がした。
あを向けに寝かされたまゝ起き上る事の出来ない日が二週間もつゞいた。その間はすべて灰色に曇った日のやうに思はれた。青い空も彼女の目には入らなかったし、明るい光線も彼女の頬を照しやしなかった。そしてあを向けに寝てゐる脊中の痛さに目をうるませて、天井を見てゐた。そして天井を見ながらも、夢の中のやうにやがて来る幸福といふものを考へて居たのである。幸福といふものがどんなものかは知らない。彼女は小さい時、朝日が山の上から上る時に、幸福が来やしないかと、静かに嬉しい心で見てゐた。また夕日が山のかげにかれる時、あの遠い山の影には、幸福があるやうな気がした。そして彼女は少女《をとめ》になった。併しまだその幸福といふものを同じやうに考へながら、必ず自分に近よって来るやうに思ってるのだ。夜が明けると雨がしとしと降って居た。曇った硝子ごしに、前の棟の屋根の上の空気ぬけの塔が、霧から晴れるやうにはっきりとして来て、いぶし銀のやうな空を彼女は見た。そして窓際に椿の葉がつや/\と輝いて居た。お葉は母親から渡された、ぬれたタオルでもって自分の顔を軽く拭って、母親の廊下に出て行ったあとを、茫然《ぼんやり》とあを向けに枕元のコスモスの花を見た。うすいろの花は、室内のこの静寂な空気の中にも堪へないやうに、ふるへてゐるやうであった。しかし幸福は室内の何物にも見えなかった。すべての空気が平和に沈滞してゐた、そしてなにか幸福のありさうな、いゝ事のありさうな明日は、矢張り変化のない今日であった。そして自分の身は動かず病床に横たはって居る。
お葉は、堪へられない淋しさと悲しさに捕へられた。そしてその淋しさや悲しさに捕へられながらも、廊下の外にする看護婦の笑声などには理由《わけ》もなく心を傾けた。そして看護婦があわてたやうに飛び込んで来て笑ひながら、[#底本では行頭一文字下げていない、49−9]
『如何《いかが》で御座います、昨晩おやすみになれまして、』と言って来るのを待った。
御飯がすむと、お葉はまたすぐバタ/\といふ廊下のスリッパの音に耳をすまして、御廻診をまつのである。毎日々々耳をすますうちに、カーキ色に赤い条《すぢ》の入った軍服のズボンを出して廻診衣を着た、いつもにこ/\した赤い顔の軍医のスリッパの音を呑み込んでしまって、
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