するのであった。すると、側の一人は必ず、お葉が目を見はって、熱心に聞いてるのを見て、
『およしなさい。そんな事は、みんなみんな嘘なんです。』と言って止めた。けれども、彼女は、肉を切って、骨をのこぎり[#「のこぎり」に傍点]で引いて、皮を縫ひ合せて、と考へて見たけれども、どうしてもそれが人間の生きた肉体に行はれるものぢゃないと思った。
 さうしてるうちに、お葉の歩くべき日が来た。
『さ、今日は少し歩く稽古をしませうね。』
 けれども、彼女はどうしても恐ろしくって、ベッドの下に足を降すことが出来なかった。
『あ、草履を持って来ませうね、一寸《ちょいと》おまちなさい。』
 看護婦が急いで行って、一足の紅緒《べにを》の草履を足元にそろへた。お葉は、慄へながら血気《ちのけ》のないやうな、白い死んだやうな片足をそっと降した。
『まあ、片方《かたっぽ》でよかったのに、私もよっぽど馬鹿な――。』
 草履を持って来た看護婦が、その時大声で笑った。彼女は恐ろしさに慄へながら茫然とその女の顔を見た。その時、室内の日が急にかげって、すべてが淡暗く物悲しく見えた。どうして自分が床の上に立上るなんていふ事が出来よう。彼女の足は、ベッドから垂れて、ぶる/\とふるへてゐた。
『さ、私につかまって立ってごらんなさい。かうして、杖を両脇にはさんで、』
 彼女は杖をしっかりつかんだ。そして立上ったけれども、看護婦のおさへた手が少しでもゆるむと、浮草のやうにくら/\と動いて、眼は夢のなかのやうに物事をはっきり見ることが出来なかった。
『さうして、一寸、一寸、飛ぶんですよ、しっかりつかまへて上げますからね。』
 彼女は、さういふ看護婦を恐れた。飛ばなきゃならないと思ふけれども、どうして足を浮かしていゝものやら、彼女は足の運び方を、すっかり忘れてゐた。そして、やうやくはっと飛んだと思った時には、わづか彼女の足元は一寸《いっすん》位しか動いてゐなかった。
 お葉は、床の上に丁字杖を持ったまゝ天地に頼りないものゝやうに涙ぐんだ。歩くといふ事が、これ丈悲しい恐ろしい頼りないものとは思はなかった。ベッドの上に、早くベッドの上に自分の身体を毛布のなかにつゝんでしまひたい。看護婦は、彼女をひきずるやうにして、漸く窓ぶちにつれて行った。わづか一間《いっけん》、それがお葉には海山の隔りのやうにも思へた。初めて窓から空を見た時、その高さと広さと、美《うるは》しさは驚くべきもので、お葉は涙を持って仰ぐより仕方がなかった。そして赤い椿の花は、土の上から空に向って、自由に幸福に咲いてゐるのであった。
 地と空との間、その間の光り、それが、すべて意外であった。そして向ひ側の廊下がどんなに美《うるは》しく見えて、白衣の人の姿がどんなに清らかだったらう。お葉は、初めて見た窓の外の景色はすべて感激にみちてゐた。けれども、それだけ、どんなに自分の不安定な、この活力にみちた空気の中を、歩く事の出来ない身が悲しまれたことか。
 次の日、お葉はまた浮草のやうにたよりない身体を杖と人とにさゝへられて、扉《ドア》のそばに立たせられた、そして又、はてしないやうな廊下の末を見やって、物悲しい心になった。彼女は、今まで自分の病室の前にこんな果てしないやうな廊下のつゞいてる事を知らなかった。淋しく涙にうるんでるやうに光る廊下の果しなさに驚いた。
 毎日一歩でも多くお葉は歩かねばならなかった。けれども、どうしてもその廊下に出る事はむづかしかった。夜、彼女は初めて看護婦におさへられて、廊下に出た。電気が、わづかに足元をてらして、開いた窓の暗い空から星が青くのぞいてた。一歩、一歩、杖の音におどろき、足の音に驚いて、引きずった着物の裾につまづきながら、現《うつつ》のやうに歩いて窓際によったけれども、涙は幻のやうに彼女の瞳をつゝんで、淡赤い月の行方《ゆくへ》をお葉は見る事が出来なかった。
 お天気のよい午後になると、それから彼女は廊下の寝椅子の上に毛布をかけて横になった。そしていろ/\の物語に読みふけった。日が水のやうに爽やかに流れて、中庭にはすべて秋の凋落は、少しも見られない。
 木の葉は緑にかゞやき[#底本では「かがゞやき」、61−13]、赤白の山茶花《さざんくわ》や椿が美しく咲いてるので、ハラ/\と日に輝いて落ちる木の葉に病む身をかなしむ事も出来なかった。ベンチとベンチの間にはベッドが置かれて、真白い薬を塗った石膏のやうな病人が日光浴をしてゐる。
 お葉の心はいま春である。かうしてる間、彼女はなんの悩みも苦しみもない。自分の肉体が如何に変化し、如何に自由を失はれてるかといふ事も考へる事が出来ない。木の青い若芽が、静かに日光を吸ふやうに、うっとりと夢の中に呼吸してゐた。
 青白い日蔭の花が、淋しい秋の日を受けて、静かな夢を見てるのもわづかの間である。お葉はそのはかない夢を見つづけて、寝椅子の上にあるのも只しばしである。母親は、前から廊下の柱によって、夢見する娘の為に、悲しい思ひをたぐってゐた。
(『新小説』大正4・1)



底本:「素木しづ作品集(山田昭夫編)」札幌・北書房版
   1970(昭和45)年6月15日発行
初出:『新小説』大正4年1月号
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:小林徹
校正:Juki
2000年3月11日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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