べてが淡紅色にはてなく見えた。彼女は恐ろしい。いそいで眼を掩ふ布を取らうとしたが、彼女の手が動かない。どこか遠くから、ゾロゾロと人の来る気配がする。彼女の手は漸くふるへて動いた。お葉の周囲は拡がった。そして驚く程明るく美しかった。天井は円く高くギャマンで張りつめられ、七色《しちしょく》に日光が輝いてゐる。そして置かれたすべての器物は、銀色《ぎんしょく》に冷たく光ってゐるのだ。この美《うるは》しい限りない恐ろしさ、彼女は暫くも見る事は出来なかった。逃れたやうな瞳を哀願的に左にめぐらした時、遠く見える部屋の彼方から白衣、白帽の医師たちがいかめしく歩いて来てゐる所だった。と、いつの間にやら、静かによって来た看護婦が、ガーゼの布をたゝんで、お葉の目の上に置いた。
 お葉は、もうどうする事も出来ぬ、改めて不意打でもされるものゝやうに、医師《あのひと》たちがよって来たなら、どんな事をされるか解らない。殺されるんだと考へたけれども自分の身体は少しも動かない。心ばかりが、本当にポプラの葉のやうにふるへる。そして何処《どこ》からともなく、金属のふれ合ふやうな響を感じて彼女は、たえずおびえた。白い、そして軽いやはらかなガーゼが、霧のやうに上から二つの瞳をおさへつけてどうしても彼女の瞳をひらかせない。周囲の人の話し声が音となって彼女の耳に入る。お葉の心は静かに茫然《ぼんやり》となりかけた。その様な状態に彼女をある時間置いといたならば、お葉は自分自身の身体を一人で魔睡にかけてしまったかもしれない。
 誰か、お葉の枕の方に来た。そして何か鼻のあたりに置かれたと思った時に、はっきりと声がきこえた。
『魔薬ですから、静かにしてらっしゃい。』
 急に、変な香がした。そして静かにしようとあせればあせる程、息がせはしく苦しくなって行く。そして何か知らないものが、ゴクン/\と咽喉《のど》の中に入って行った。[#底本では行頭一文字下げていない、44−9]
 そして、それがだん/\つかみ所のない苦しさにかはって行く。そして遠く隔った所に堪へられない痛さが起る。実際それは堪へられない苦しさと痛さだけれども、つかみ所がないのだ。自分の肉体の何処に起ってるのだか、手が、足が、頭が、胴が、目が、耳がどこにあるのやら解らぬ。そして、それが入り乱れて円い玉のやうなものになって行くと、周囲は真暗だ。
 そして、それが丁度夜汽車のやうな機関の音が、真暗ななかにして、どん/\どん/\お葉の身体は運ばれて行った。けれども苦しいことは依然として苦しい。そしてその苦しさと速さが絶頂に達したと思ふ時に、ぼっと周囲はとび色の明るさになって、広い/\野原であった。彼女の身体は、その中に十重《とへ》、二十重《はたへ》にしばられて、恐るべき速力で何千里と飛んだけれども、その行く先はわからなくなった。すべてが無になった。お葉の意識はすっかり魔睡してしまった。彼女は何事もしらなかった。
 カラ、カラ、カラ……どこからか輸送車の音がかすかにする。お葉は、それを知ってたが、自分はどこに居るのだか、何をしてるのだかもわからない。カラ、カラ、カラだん/\その音が近づいて来た時、漸く自分は輸送車にのって廊下を歩いてるんで、その音は自分の車の音だとわかった。けれども何物も見えない。彼女の瞳はにかは[#「にかは」に傍点]でつけられたやうに開く事が出来なかった。
 それから、彼女はそっと抱かれてベッドの上にねかされたのも知ってゐる。そして周囲に母や兄や、親類の人看護婦などが見守ってゐることも頭に考へられぬでもない。母親の気づかはしげな声が、茫然《ぼんやり》と耳に入る。しかしお葉はまだ自分の手や足や胴がどこに置かれてあるのだかわからないし、自分が今何をして来たのだかも明瞭《はっきり》しない。
 けれども、どことなしに不安が身をおそって来る、どうしても眼を開かなくちゃ不可ないと思ひながら、かすかに瞳を開けた時、周囲は霧が立ちこめたやうに淡暗く、人の眼がみんな強く自分を見つめて居た。
『お母さん!』彼女は、漸く母親を呼ぶ事が出来たが、その声は極めて力なく弱くって母親の耳に入ったかどうか解らない。急に思ひがけないやうな淋しさと悲しさが彼女のすべてをつゝんだ。その時医師は手と足に食塩とカンフル[#底本では「カンプル」、46−5]の注射をした。そして、その痛さによって初めてはっきりと声を立て得るやうになり、すべての意識が我に帰った。母親は枕元に彼女の額を冷し、乾いた白い唇をガーゼでしめして居た。
『もう、すんだの。』お葉は周囲を見まはした。しかし、あの恐ろしいことが、足を切断するなんていふ事が、すんだとは考へられない。只なにか、まだ/\易しいことが済んだのだと周囲を見まはした。
『熱い、あつい。』お葉は起き上ることも、動くことも出来
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