車は入れられた。
 お葉は抱かれて輸送車にのせられた。
『あ、お母さん。いま、いま!』
 輸送車は病室を出た。そして二人の看護婦は、あわたゞしく長い廊下を輸送車をひきながらかけて行った。何故運命の前に、こんなにあわたゞしいのだらう。彼女は実際運命の前に運ばれて行った。あわたゞしく、小さい彼女の肉体は運ばれて行ったのだ。
『あゝ、いま、いま!』
 母親は扉にすがって立った。そして、輸送車が廊下の角を曲らうとした時、遠くにお葉の黒い瞳を見た。その眼は、母親の悲しく追ひすがった眼と合はなかった。只、茫然と宙に迷っている黒いかなしい瞳なので、バタ/\と二三間廊下を無意識に歩いて見たが、もはや輸送車はかくれて、お葉の姿は見えなかった。
 母親は、淋しい病室のなかにふら/\と入って行って、白い敷布の上に充血した赤い目を閉ぢて、暗い涙をおとした、お葉は居ない。
 母親はまた、あわたゞしく廊下を行きつもどりつして、運命の前に泣き叫ぶ我子の声を聞かうとした。しかし、あたりは静まりかへって物音一つしない。
 かたく閉ぢられた硝子の戸が開かれて、黒い石で畳まれた暗い廊下に入った。お葉は心の中に起るさま/″\な幻影を一つにして、静まり返らうと目を閉ぢた。が、しかし目を閉ぢれば閉ぢる程、心のなかに深い波だちが起って、彼女の肉体はたえまなく小さく慄へてゐた。やがて、あまりに明るい秋の日が、あたりのギャマンの窓にてりつけてゐる部屋に、彼女の輸送車は引き込まれた。そこには、いくらかの看護婦と、二人の顔と胸に繃帯をまきつけた少年が椅子にかけて居た。そして水あさぎの日光が、部屋一ぱいに流れてゐた。お葉はあをむけに窓から高い大きな松の木を見上げた。そしてその松の梢の空はヱメラルドのやうに美《うるは》しかった。枕元に手をやって茫然と側にたゝずんで居た看護婦が、どこを見てゐたのか、
『あの松はね』と話しかけた。
 お葉は静かにうなづいたが、忽ち不安になった。
『あの、手術は!』
『まだ、先の人がすまないから。』
 彼女は、ふとおどろいた。いま恐ろしいことが行はれつゝある。その人の恐ろしさは、他の人の空を見てる一瞬にもあったのだ。
『それ、その窓際に松があるでせう。』
 看護婦はいつか立ち上がった。そしてお葉の髪の毛を静かに撫で乍らまた言った。
『あれはね、宗五郎松って、佐倉宗五郎が、磔刑《はりつけ》になった松なんですよ。』
 彼女は、ふと松を見た。そしてそんな恐ろしい事実のある松も、この美《うるは》しい日に美《うるは》しい空の光にそびえてる事を思って、美しい日であるといふ不安に、心が淋しくおちつかなかった。
『まだ。』お葉の心は少し落ちついた。
『えゝもうぢき、あの杉浦さんは入歯を入れて居りませんか、入歯があったらみんな取って置かないとこまりますから。』
『いゝえ。』と彼女は、悲しさうに看護婦の顔を見ながら、『なぜ、』と問ひかへした。
『それはね、魔薬をかけたあとで入歯が咽喉《いんこう》に入ると危いから――。』
 看護婦は深くは言はず、なだめるやうに答へた。
『それから指環は。』彼女が一寸《ちょいと》手を動かした時、指環が目についたので、お葉は少しもゆるがせにしては不可ないといふやうに、また看護婦の顔を見た。
『さうね、おまちなさい。取った方がいゝでせうね。』
 真白な小さいそれ自身が花であるやうな美しい彼女の手の紅指《べにゆび》にルビーの指環《ゆびわ》は、あまりに幸福に輝いてゐた。青い空を背景に、彼女はあを向けに手を胸の上に上げて、幸福に輝く指環をぬいた。そして看護婦に渡した。お葉は、その指環をぬくに何の悲しみも持ってない。何の思ひ出も払ってない。それが恋人によってはめられた特殊なハートのこめたものではないから。
 そのまゝまだ胸の上に置かれた淋しい手の指に、うすい指環のあとがついてゐた。お葉はそれを無心にみつめて居た。
 やがて、おもたい戸の開く音がして、暗い廊下の彼方に蒼白く淋しい窓が見えた。そしてがら/\と車の音がして、死人のやうにすっかり顔の筋肉に力のない男が運ばれて行った。
『恐ろしい。』お葉のすべての五官は、出来る丈け小さくならうとつとめて、木の葉のやうに戦慄した。
『あゝ恐ろしい。』彼女は、それより以外になに物もなかった。そして下に掛けられたキャラコの白い布を引っ張って、生え際の所までかけた。その上に秋の日は動いて、白く光った。お葉の輸送車はうごき出した。
 ガタリと音がした時、彼女は氷のやうにつめたい空気にふれて驚いて眼をひらいた。
 周囲は真暗だ。なに物も見えない。彼女は、恐れてすぐ眼を閉ぢた。
 やがて、またガタリと音がして、彼女は低い所におち入ったやうな気がした。そして暖かい蒸すやうな空気が彼女の身をつゝんだ。
 そして、キャラコの布ごしに、す
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