ない。腰のあたりに大石をのっけたやうに千斤の重さがある。そして胸の辺りからずっとリヒカ[#「リヒカ」に傍点]が掛けられて、物々しく毛布がたれて居た。併し、足を失ったといふことが、どうして解り、どうして感じられよう。彼女の頭は、唯両足の重いといふより感じられなかったのである。
『熱い、あつい。』お葉は、両わきにだらりと下げた手を、氷の入った金盥《かなだらひ》のなかに落した。白く死んだやうな手に、冷たさがしん/\としみて行った。
母親は、あまりながい手術の間を身悶えして病室にまち、廊下を歩いては、『万一手術中に死亡の事有之候とも遺存これなく候』と手術契約書を出したことを考へて、もうあれが最後であったかもしれない。寧《いっ》そ若い身空で不具《かたは》となって生きるよりは、このまゝ死んで呉れた方がお葉の為めでもあり、また自分にもその方がいゝかもしれないなどゝ考へて居たが、かうして娘はベッドにねて居るが、何処にその恐ろしい変化が加へられたのだらうと思った。両手はやはりすこやかに延びて、指一本欠けてる所もない。何事もおこらない。何事もあったのではない、考へてた事すべては夢であったといふやうな気がする。母親は絶えずお葉の顔を見つめながら、彼女の乱れた生際《はえぎは》を冷たいタオルでぬらして居た。
次の夜がまた相変らずおそって来た。そして前の夜にもまして重苦しいながい夜であった。丁度沙漠を旅する人のやうに、熱さに苦しみながら、変化のない夜を只水を欲して居た。
彼女は幾度も/\母親を起した。そして母親がコップを持って廊下を出た時、耳をすまして遠くに氷をかく音を聞いた。そしてどんなに扉《ドア》のあくのを待ったかしれない。
胸の上にコップを置いて白い、然しやきつくやうな両手でつかんで、氷のかけを咽喉《のんど》に落した時、彼女は漸く浮き上るやうな気持ちになった。そして極めてわづかの夢を見ることが出来た。
それから、お葉は廊下の足音を出来るだけ気をつけた。そしてその足音がもしも、扉《ドア》の前にバタリと止って、扉の影からそうっと白衣が見えた時には、その看護婦の空想的な瞳をすがりつくやうに捕へた。そしてコップにまたわづかの氷を願った。彼女は目覚める度に時間を聞いて、時があまりに静かなのに不安でならなかった。
『あゝまだ夜があけない。』お葉は眠らないので疲れ切ってた。しかし夜が明ければ自分が疲れからすっかり逃れる事が出来、さわやかに美しい日が来るやうな気がした。
あを向けに寝かされたまゝ起き上る事の出来ない日が二週間もつゞいた。その間はすべて灰色に曇った日のやうに思はれた。青い空も彼女の目には入らなかったし、明るい光線も彼女の頬を照しやしなかった。そしてあを向けに寝てゐる脊中の痛さに目をうるませて、天井を見てゐた。そして天井を見ながらも、夢の中のやうにやがて来る幸福といふものを考へて居たのである。幸福といふものがどんなものかは知らない。彼女は小さい時、朝日が山の上から上る時に、幸福が来やしないかと、静かに嬉しい心で見てゐた。また夕日が山のかげにかれる時、あの遠い山の影には、幸福があるやうな気がした。そして彼女は少女《をとめ》になった。併しまだその幸福といふものを同じやうに考へながら、必ず自分に近よって来るやうに思ってるのだ。夜が明けると雨がしとしと降って居た。曇った硝子ごしに、前の棟の屋根の上の空気ぬけの塔が、霧から晴れるやうにはっきりとして来て、いぶし銀のやうな空を彼女は見た。そして窓際に椿の葉がつや/\と輝いて居た。お葉は母親から渡された、ぬれたタオルでもって自分の顔を軽く拭って、母親の廊下に出て行ったあとを、茫然《ぼんやり》とあを向けに枕元のコスモスの花を見た。うすいろの花は、室内のこの静寂な空気の中にも堪へないやうに、ふるへてゐるやうであった。しかし幸福は室内の何物にも見えなかった。すべての空気が平和に沈滞してゐた、そしてなにか幸福のありさうな、いゝ事のありさうな明日は、矢張り変化のない今日であった。そして自分の身は動かず病床に横たはって居る。
お葉は、堪へられない淋しさと悲しさに捕へられた。そしてその淋しさや悲しさに捕へられながらも、廊下の外にする看護婦の笑声などには理由《わけ》もなく心を傾けた。そして看護婦があわてたやうに飛び込んで来て笑ひながら、[#底本では行頭一文字下げていない、49−9]
『如何《いかが》で御座います、昨晩おやすみになれまして、』と言って来るのを待った。
御飯がすむと、お葉はまたすぐバタ/\といふ廊下のスリッパの音に耳をすまして、御廻診をまつのである。毎日々々耳をすますうちに、カーキ色に赤い条《すぢ》の入った軍服のズボンを出して廻診衣を着た、いつもにこ/\した赤い顔の軍医のスリッパの音を呑み込んでしまって、
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