自分は魔薬にかけられた時、魔女がひそかにしのび込んで来て、自分の姿を鹿の形に変じた。鹿になった自分は窓から中庭にのがれて、アカシヤの木陰をかけぬけ、古い井戸の側に行って、釣瓶《つるべ》から滴る水が身体の上に落ちると、自分はいつか美《うるは》しい女になって歩いてゐる。自由に、自分に身体といふものがないかのやうに、自由に楽しく歩いてゐる――いつか、どこかに恋人があった。お葉は片輪になったので、もう遊んでやるわけには行かないと言った。お葉は足がないので立ち上るわけにも行かず、床の上にねたまんま、毎日々々どうかして死なうと思ってないてゐた。親も兄弟もみんなお葉をすてた。お葉の寝てゐる所は、どこか真暗な牢屋《らうや》のやうな所で、高い所に、小さな小さな窓が、一つしかなかった。そしてその窓からは、白い光線が少し入るばかりであった。
それ等の畫面は、次から次へと、彼女の運命の前に戦慄《をのの》いてゐる、小さな心のどこかへひそやかに入って居た。遠い昔のやうな思ひが、ずん/\目の前におしよせて来たり、また、今現在の事実が遠い古への空想のやうに遠ざかって行ったりした。事実どれが自分の悲しむべき運命にあるのだか、さしせまった恐るべき運命にぶつかっても、心は決して事実と一致しない。常に事実と心とは、淡絹を隔てゝ遂に人間が人間と一致しないごとくに、永久に一つになることはなからう。
心は事実を否定する。事実は心を否定するのだ。
太陽は輝かしく空に高い。青空は限りなくすべての上にひろげられた。お葉の肉体は遂に事実にぶつからねばならない、時は流れた。そして午後の物々しいひそかな空気は、ひるがへる白衣の人の裳《もすそ》から廊下にみち、扉のかげから、病室のベッドの下にもはひよった。そして壁をへだてた看護婦室に物悲しい時計の音が一つ鳴った。
『あゝ一時!』お葉は毛布の上に手を投げ出して、あわてたやうに言った。
母親は、白い浴衣《ゆかた》を出さうと戸棚の戸をあけた。
そして料理される魚が清水《しみず》で洗はれるやうに、お葉は清らかな浴衣に着かへて、手術台上の人とならねばならなかった。しかし心には永遠に事実はない。心は夢である。お葉は輸送車の廊下を走る音に、青白い手と胸をふるはせながら、なほ夢を見てゐた。夢のなかの事実を思ってゐた。やがてあわたゞしく、扉《ドア》はあけられた、そして病室のなかに輸送
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