る神はなかった。母親は、また起き上った。そして、もはや何事も言はずに、彼女の毛布にかくれた足の方をぢっと見入った。
 かくて、お葉はこの一夜《ひとよ》の中を、うゑた人のやうに疲れと絶望とに力なく瞳をとぢては、又いつか重い瞼《まぶた》を上げて空を仰ぎ、死の恐怖に堪へられなかったのである。[#底本では行頭一文字下げていない、35−13]
 やがて、夜はあけた。世のあらゆるすべての静寂が、この花一つにふくまれて咲くやうな月見草のはなのやうに夜はあけはなれた。ほの白い夜あけの空気が、病室のなかに立ちこめる。
『あゝゝ、夜があけた。』
 お葉は、初めて意識がはっきりして来た時、絶望の後の力なさであった。もはや、時が進むといふのは、どうする事も出来ない力である。時の行くまゝに人は行かねばならない。彼女は、もはや何の為めに今日自分自身の片足を切断しなければならないのか?といふ事は思ふ事が出来ない。これも通過しなければならない時の道であるのだ。
 お葉は、水の一滴牛乳の一つも林檎の一切《ひときれ》も口に入れなかった。そして改めて、空を見、窓を見、壁を見、天井を見て、自分の明らかに開いた二つの目を悲しく思った。そして思はずも動いた母の瞳と合った時は、
『お母さん、今日、今日、』と思はず叫んだ。
『お母さん今日になった。』
 しかし、母親はどうする事も出来ない。そして、皺のよった手を重ねて、うつむきながら子供を持った苦労を思ひ、若いお葉の身の上をかなしんだ。
 お葉は静かに晴れた幸福な窓の外を見た。そしてるうちに前から考へてた事をまたふと考へて、恐ろしさにをのゝいた。
 あゝ、眼が覚めて、魔薬がさめて、片足がなかったら――、それは、あたり前のことなのだ。しかしその当然来るべき事がどんなに恐ろしいことだか、その約束されてる事がどんなに悲しいことだか、片足がなかったら、片足がなかったら、そんな事は想像出来ぬ。
 実際、そんな事が一時間と思ひつゞけて居られるだらうか!彼女は来るべき運命の残忍さに戦《をのの》きつゝも、またその瞬間に於いて、美しい空と、赤く咲き誇った窓際の花とを無心に眺めることが出来た。
 そして、すべての時にお葉の心のなかには空想が働いて居た。お伽ばなしで読んだ事、小説で見たこと、そんなことが入れかはり立ちかはり、速かに画面を、彼女の小さな心のうちにひろげてゐる。――手術室に
前へ 次へ
全18ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
素木 しづ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング