、その高さと広さと、美《うるは》しさは驚くべきもので、お葉は涙を持って仰ぐより仕方がなかった。そして赤い椿の花は、土の上から空に向って、自由に幸福に咲いてゐるのであった。
地と空との間、その間の光り、それが、すべて意外であった。そして向ひ側の廊下がどんなに美《うるは》しく見えて、白衣の人の姿がどんなに清らかだったらう。お葉は、初めて見た窓の外の景色はすべて感激にみちてゐた。けれども、それだけ、どんなに自分の不安定な、この活力にみちた空気の中を、歩く事の出来ない身が悲しまれたことか。
次の日、お葉はまた浮草のやうにたよりない身体を杖と人とにさゝへられて、扉《ドア》のそばに立たせられた、そして又、はてしないやうな廊下の末を見やって、物悲しい心になった。彼女は、今まで自分の病室の前にこんな果てしないやうな廊下のつゞいてる事を知らなかった。淋しく涙にうるんでるやうに光る廊下の果しなさに驚いた。
毎日一歩でも多くお葉は歩かねばならなかった。けれども、どうしてもその廊下に出る事はむづかしかった。夜、彼女は初めて看護婦におさへられて、廊下に出た。電気が、わづかに足元をてらして、開いた窓の暗い空から星が青くのぞいてた。一歩、一歩、杖の音におどろき、足の音に驚いて、引きずった着物の裾につまづきながら、現《うつつ》のやうに歩いて窓際によったけれども、涙は幻のやうに彼女の瞳をつゝんで、淡赤い月の行方《ゆくへ》をお葉は見る事が出来なかった。
お天気のよい午後になると、それから彼女は廊下の寝椅子の上に毛布をかけて横になった。そしていろ/\の物語に読みふけった。日が水のやうに爽やかに流れて、中庭にはすべて秋の凋落は、少しも見られない。
木の葉は緑にかゞやき[#底本では「かがゞやき」、61−13]、赤白の山茶花《さざんくわ》や椿が美しく咲いてるので、ハラ/\と日に輝いて落ちる木の葉に病む身をかなしむ事も出来なかった。ベンチとベンチの間にはベッドが置かれて、真白い薬を塗った石膏のやうな病人が日光浴をしてゐる。
お葉の心はいま春である。かうしてる間、彼女はなんの悩みも苦しみもない。自分の肉体が如何に変化し、如何に自由を失はれてるかといふ事も考へる事が出来ない。木の青い若芽が、静かに日光を吸ふやうに、うっとりと夢の中に呼吸してゐた。
青白い日蔭の花が、淋しい秋の日を受けて、静かな夢を見て
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