ふと、あの広いガランとした病室のなかに誰れも、杉本さんもゐないのではないかと、自分が少しの間でもはなれてゐるといふことが、涙ぐまれるやうな気がした。そして、毎日のやうに今日こそは、子供のよごれた身体をふいて、新しい着物にきかへさせ胸に抱いて、俥で家に帰って来ることが出来やしないか、再びこの家のなかに時子の姿を見ることが出来やしないかと思ふと、落ちついてることが出来なかった。階下《した》では、夫《をっと》の繁吉が絵を描き初めたのであらう、しきりに椅子や画架を動かす音がする。

 雨上りのやうなしめった静かな朝を、朝子は気がついたやうにお湯に出かけた。彼女はしばらく外に出なかったので、お湯に出かけるのも一仕事のやうに思はれた。朝子はやうやく外に出ると、お湯までのわづか半町《はんちよう》にたらない小路でも物珍らしく、一寸したことでもすぐに眼がついてならなかった。そしてその一寸したことすべては、夏から秋になったといふ事を思はせるものばかりであった。
 朝子は、誰もゐない朝湯のなかで、気のぬけたやうな心持でたった一人つく/″\自分の衰弱した、だるさうな身体を見つめた。どういふものか裸体《はだか》
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