家に帰って来たんですよ。』
繁吉は、家に入るや否や、時子を抱きしめて、家の中を廻り歩いたが、彼はふと気がついたやうに、大きな手を子供の額にあてゝ見て、また自分の脣を子供の額に押しつけると、
『大丈夫だ。』と、独り言をいって、二階に上って行った。
彼は忙しかった。急に時子の蒲団を敷いたり、おしめ[#「おしめ」に傍点]を調へたり、部屋の温度を見たりしなければならなかった。繁吉は、絵筆をしまって、画架をかたよせた。
朝子は、家に入るや否や、時子を良人にとられてしまふと、そのまゝそこに坐ってしまった。すると彼女の瞳は、ぼうと物倦くかすんで来た。そして動かすことが出来なかった。それは急に天気が曇って来たせゐか、冷え/″\した空気が流れこんで来て、彼女は悪寒《さむけ》がして顔色が悪くなった。
朝子は、繁吉に呼ばれたけれども、立ち上って二階に行くことが出来なかった。
繁吉は、時子を横にすると、其側に朝子の床を敷いて朝子を寝させた。朝子は横になって、時子がしきりに不機嫌にむづかって泣いてる顔を、うと[#「うと」に傍点]/\と細目に見ながら、何か云はう、何か云はなければならないと思ひながら、彼女は苦しさうに身動きもせず、そのまゝ深い眠りに落ちてしまった。
繁吉は、時子を寝させようとして、片手で布団を叩き、子守唄をうたひ出した。そしてまた片手で朝子のだるいといふ背中をなでゝさすってやった。時子は、やがてよごれた顔をして、うと[#「うと」に傍点]/\と眠った。
[#一字下げ忘れか?211−6]彼は、急に仕事が忙しくなった。時子の牛乳の時間も見なければならなかったし、おもゆ[#「おもゆ」に傍点]の加減も見なければならなかった。彼は漸く階下《した》に降りて、自分の部屋に入ったけれども、落ちついてぢっと椅子に腰をおろしてゐるわけにも、描きかけの絵を見てゐることも出来なかった。彼は、今二階に寝させて来た許《ばかり》の病身の妻と、病気上りの痩せて浅黒い小さな我子の上に、少しの間でも気をゆるすことが出来なかった。子供が起きやしないか、朝子が呼びはしないかと、彼は腰をおろしても、二階の方にばかり気がとられてゐた。
しかし彼は気をとられながら、絵筆を持った。彼の心はやはり秋だと思ふと動いた。そして彼の絵を賞賛する友や知人が、彼を訪ねておなじやうに、彼に秋のサロンへの出品を勧めた。朝子は二階
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