いが、涙によごれてゐるのを、限りなくなつかしく、何も云はずにぢっと眺めた。
 時子が泣いてゐる。といふ事が、なんとも知れない自然の喜びとなって、彼女の心に湧き上って来るのであった。時子が泣いて、そしてまた元のやうに、家に帰って来るのだと思ふと、朝子は急に、時子の涙によごれた頬に顔をすりつけて、何も云はずに杉本さんの顔を見て笑った。
『お泣きになるんぢゃ、御座いませんたら。』
 杉本さんは、さっきから子供が泣くので、どうしようかと云ふやうに、同じことを繰りかへしながら苦笑してゐる。朝子は、なんとなく杉本さんの顔を見ると、気の毒でならなかった。
 彼女は、泣いてる時子の身体をふき終ると黙って、彼女が子供の退院までに、縫って調へた新らしい襦袢と着物とを着せ初めた。そして、夏に刈ったばかりのまだ延びない頭のくしゃくしゃ[#「くしゃくしゃ」に傍点]した短い髪の毛を、横の方にときつけた。時子はいつの間にか泣きやんで、小さくすゝり上げてゐる。
 新らしい友禅の着物は、色の黒いやせて不機嫌さうな顔をした子供に、少しも似合はなかった。併し朝子は、着物をきせ終ると、時子が杉本さんに抱かれるのを、嬉しさうに見た。そして持って帰らなければならないものを、まとめて風呂敷につゝむと、彼女は夢中になって、先に出た杉本さんのあとを追って病室をふりかへりもせずに、廊下に出た。そして顔見知りの看護婦や人々に頭を下げた。俥にのると朝子はあわてたやうに両手をのばして、杉本さんの手から時子を胸に取って抱いた。そして俥が走り出すと同時に、強く抱きしめた。時子は赤くなって苦しさうに、身体を動かした。朝子はそれが何となく嬉しかった。彼女はやがて子供を安らかに抱いて、時子に電車や通る人を見せるやうにした。
 俥が朝子の家の近くに来た時、良人にはやく時子が来たことを、知らせてやりたいと彼女は考へた。そして首をのばして家の二階の欄干《てすり》の所を見たが、誰れも見えなかった。朝子は、なんとなく寂しい心持がした。誰か知った人にでも、誰れでも顔見知りの人に逢って、笑ひたいやうな気がした。すると繁吉はいつの間にか、家の前の門の所に立って、両手を上げながら、此方を見て笑ひながら、何か云ってゐる。朝子は、急に笑ひながら、時子の顔をのぞき込んで云った。
『父さんが、ほら時ちゃんの父さんが、あすこに見えるでせう。さあもう時ちゃんのお
前へ 次へ
全9ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
素木 しづ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング