葉はその青年の姿を見たのだつた。
 青年は折々彼女の家に遊びに來た。
 暗い階子《はしご》を登つて灯のついてない二階に登つて來た時、マッチをすつて瓦斯《ガス》をつけて呉れた。夕闇のなかに俯向《うつむ》いて坐つてたお葉が夢から覺めたやうに首を上げた時、隈《くま》なく明るくなつた部屋のなかに、美しい青年の瞳が輝いてゐたのである。お葉はその青年が堪へられなく戀しい時があつた。青年はお葉を愛してゐた。
 彼女はいま夢のやうな心のうちに、物悲しい氣分が彼女の心をつつんで行くのを覺えた。今自分は愛されるといふ幸福の爲めに、死を忘れてしまふんぢやないかと思つたのである。そして戀しいと思ふ心の惰性に引ずられて、そこに思ひがけなく年齡の醜い影を見るのぢやないかと思つたのである。それがすべて刹那の幸福であり、僥倖の嬉しさであるのだけれども――。お葉の心は刹那の爲めに動き易い。人はすべて僥倖の幸福に生きたのであつた。彼女はその時生きてることの悲しさを思つたのである。
 青年はある時快活に叫んだ。
「ねえ、僕だちは運命の先を歩くんだ。」
 その時お葉は青年と共に微笑《ほほゑ》んだ。そしてうつ向きながら、瓶の中のダーリヤをつまんだのであつた。自分の三十三の死といふのは、本當に運命に支配されない、運命の前を歩くといふ事だつたのだ。自分は自分の一生を自分で取りきめたのであつて、それが運命なのぢやない。お葉は再び微笑んだのである。しかし自分の心を知らない前に坐ってゐる青年の姿が淋しく見えたのであつた。
 お葉は自分の肉體を見ることを出來るたけ避けたのである。けれども彼女が夜おそくうす暗い湯殿のなかに衣を脱いだ時、ふくらんだ乳房が物悲しく動悸《どうき》をつたへてゐた。彼女は湯つぼのなかに永く靜かに夢のやうな死を考へて浸つてゐるのであつた。やがて覺めたやうに目を見開いて、初めて臺の上に腰を降してゐる自分の肉體を見出した時、時としては烈しい動悸が胸をつらぬいて、あわてて母を呼び立てねばならないと思つたこともあつた。お葉はタオルを胸にあてて、暫く顏を押へたのである。その時彼女にのみある幸福な死は、お葉の心を和《やはら》げたのであつた。お葉が再び顏を上げて心の靜けさを思つた時、細い窓から月光が流れて、彼女の肉體は神の如く清く美しくあつた。お葉は布を腰にまき衣を肩にかけて、初めて衣のない神代に人と生れあはせなかつたことを感謝したのである。
 夏の終りごろ、お葉の家は一時|湯殿《ゆどの》のない家に引き移らねばならなかつたのである。彼女は母親について新しい家に行つたのであつた。けれどもお葉は色々道具と共に荷車の上につまれた義足のことを悲しく考へたのである。白い袋に入れられた義足がしちりんやお釜の側に積まれたのを、彼女は竹垣によつて見てゐる時瞳が曇つて來た。
「なに大丈夫だよ。上に莚《むしろ》をかけるから、少しも見えやしないよ。」
 お葉の兄は荷物の上に繩をかけながら言つた。
「お孃さん大丈夫です。見えたにしたつて、誰れもお孃さんの義足だつて知る奴ありませんからね。」
 車屋は兄について大聲に言つて笑つたのである。
 お葉は母親とならんで電車のなかに腰を降した時、賑かな街の坂の上を登つてゆく車のことを思つた。そしてその中に積まれた足袋をはいてる義足は矢張り道具であるのだと思つたのである。血も肉もない骨もないのだつた。腿《もも》のなかは空洞になつて、黒い漆《うるし》が塗つてあることを考へた。膝から上が桐の木で、膝から下が朴《ほほ》の木で作られて足の形を取る時に、かんなで削つたことを考へたのである。
 木で作られた足は無雜作に折られて、鋭いかんなは其上をすべつた。白い布の上に澤山落ちたかんなくづが、そこに俯向《うつむ》いて横坐りに手をついてゐたお葉の瞳が茫然とうるんだ時に、一面べつたり血しほが流されてるやうに見えたのであつた、牛肉のやうに肉がぽつぽつと切れて、白布の上に落ちたのである。
 やがてお葉が空を見上げて再び前を見た時に、白い足の上には氣味の惡いやうな木目が彫物《ほりもの》のやうに長くついてゐて、觸れた指先には無心な冷さが傳はつたのであつた。
 一月の後になつて、それは勞働者の脛《すね》のやうに代赭《たいしや》色のつやつやした皮で張られて來た、足は白い消しゴムのやうに軟く五本の指が動くのであつた。お葉はその義足をつけた時、衣の中に何といふ恥しさを感じたことだろう。肩についた皮や、胸や腰のバンドがお葉の動く度に鳴つた。柔らかな初毛《うぶげ》のはえた肉色の一脚にならんで、それはつやつやと手垢にみがかれた骨董品のやうな一脚であつたのだ。またそれはくけだいのやうにピンと折れては、カチンと延びる無意味な器械であつた。その足はなに物に強くふまれても、棒のやうにいつ迄もながく立つてゐた。
 お葉がすべてのバンドを解いて、義足を露骨に投げ出した時、すべての罪、責任から逃れたやうな安堵《あんど》の息のなかに、そのまま昏睡しようとした。
 お葉は新しい家の二階に上つて見たのである。夕ぐれの藍色の空に高い高い浴場の煙突が聳《そび》え、白いほのかな煙りがゆるやかに流れてゐた。そして何物もない靜かな空は象眼細工のやうに細い月がかかつてゐたのである。お葉の心はいづことなく天地のなかから響くどよめきのなかに淋しく沈んだ。新しい浴場はいま青い瓦斯《ガス》のいろに美しく浮き出て、そこに花のやうな香が立ち舞ふのである。お葉の瞳はいつか物珍らしげに向ひの家を見下ろして、その格子窓から洩れる三味の音を聞いてゐるのであつた。それはなんの歌とも解らない。しかしその調子のままに動いてゐた心が、やがてばたりと切りはなされて、お葉は茫然《ぼんやり》した。三味はやんで、やがて格子ががらりと開いたと思つたら、繻子《しゆす》の細帶を結んで唐人髷《たうじんまげ》に結つた娘が、そのまま駈け出して湯屋のなかに吸はれるやうに入つたのである。
「自分の世界とはすつかり違つてゐる。」
 お葉はなんとなくそんな事が考へられた。
 自分の身が實際であるならば、いま自分が見てゐる世界は繪のやうな氣がする。繪の世界が現實ならば、自分はいま夢を見てるんだ。彼女は強ひられたやうに、そんな考が心のなかに起るのを感じながら、幾多の美しい肉體が亂れ合つてゐる浴場の霞のやうに立ち登る湯氣のなかを想像したのである。
 その後、お葉は母親と二人靜かな朝の冷たい湖のやうな浴場の姿見の前に立つて、丈長い帶と赤いしごきを解いたのである。
 三越の廣告の女は壁の上から黒い瞳を投げて居た。着かへたしぼりの浴衣《ゆかた》のいろが美しく鏡のなかに浮き出た時、お葉は物かなしい瞳で、ぢつと鏡のなかを見守つたのである。
 一脚の足は運ぶことを知らぬ。兩手の指が強く硝子窓の棧にふれながら、漸く湯つぼのへりにたどりついた時、母親のくんで流すお湯は、彼女の足の裏をおびえるやうに、そして快く流れたのであつた。ぬれようとする浴衣の裾を、母親が容赦なくまくり上げた時、反抗する手段のないお葉は、強いそして物かなしい樣な瞳に母親を見返つたが、何《ど》うしても浴衣はそこでぬがねばならないのだつた。すべてを奪はれたお葉は慘忍な健康者の態度を見入りつつ、海底に棲《す》むといふ人魚の樣に、似るべくもない四肢の醜さをなげき悲しんだのである。みなぎつた朝の日光が、高い玻璃戸から側の窓硝子から輝かに清く靜寂の浴場のなかに漲《みなぎ》つて、湯つぼは碧色に深く濃く湖のやうに平かであつた。お葉は初めてわが肉體の美しさと、なつかしさと、あまりに廣やかな周圍から何物かの迫つて來る恐れを感じたのである。
 彼女は絶えず肩から桶のお湯を流し、あまりに露骨にこの明るさのうちに解放されたる肉體を見て戰慄《をのの》いた。
「まあ、お前は肥《こ》えたねえ。」
 母親はながく見ないお葉の身體に驚きの聲を放つたのである。胸の肋骨はゆたかな肉にかくされた。衿元《えりもと》に筋のいるくぼみは盛り上げられて、肩はまるく兩腕はながながとのびてゐた。そして花のやうな乳房の上にお葉は睫毛《まつげ》をながく伏せたのである。
「いいお湯、なんといふ氣持のいいお湯だらうね。お前一寸お入りよ。おさへてて上げようか。」
 衰へた母親の兩腕はお葉の前にのびたのである。しかしお葉は湯ぶねのへりに腕をなげかけて、靜かなお湯の面に指を觸れながら、底にうつるわが黒髮のさまを見つめたのであつた。そして祕《ひそ》かにこの表面に再び浮き上ることの出來ない底があつたならば、いまに自分は入ることがあらうと思ふのである。いま朝日は玻璃の窓を通してお葉の肩から胸に斜に影を投げた。黒髮が綾に光つて、青い簪《かんざし》の玉は、そこに陰鬱な影を投げてゐた。
 お葉はいまあまりに緊張《はり》きつた一脚の足の肉にふれて驚ろいたのである。足は常に精一ぱいの力に張りきつて、そこに少しのゆるみもなく延びてゐるのだつた。この脚が私の全身を支へるのだ。支へるといふことを知つたこの足の醜さよ。しかし彼女の右の手は柔かに白い、丁度日蔭の草のやうに、育たない短き肉塊の右足を押へてゐるのだつた。それは本當に赤子のやうに、いぢらしく慄《ふる》へてゐた。そして温い血しほが、ゆるやかに流れてゐたのである。お葉は生きんとする人間の醜さを考へた。殊にだんだん畸形にかはる自分の肉體を、いま目の前に見せられて淺ましく思つた。
 ある人がお葉に言つた。
「だんだん畸形に育つんだね。」
 その時彼女は松葉杖をつく爲めに、柔かな掌が足の裏のやうに變つてゆくのを感じて、膝の上の手をまさぐつてゐたのだつた。
 お葉は夕暮その家を辭して、石垣の上に靜かなオルガンの音を耳にしながら、細道を一人かなしく家に歸つたのである。どんなに醜くなつても、生きてゆかなけりやならないのだらうか? いま自分の生と自分の肉體を最《もつとも》美しく終らせたいと思ふは唯一つそこに死があるばかりである。お葉は矢張り死ぬのであつた。
 また畸形の肉體に盛られた心は、矢張り畸形にしか育たない。彼女は精神の畸形なる天才や狂人のことを考へたのであつた。けれども天才は現世に幸福でなかつた。狂人は如何に幸福であらうとも、肉身のものの苦痛をどれだけ増さねばならぬかと云ふことが解らない。そして醜い肉體は、世の中に存在してゐるのだ。お葉は醜いことを見たくも知りたくもない。死は清く美しい、そして永遠に尊い。お葉は靜かに三十三の死を思つて、微笑んだのであつた。
 水に梳《くし》けづられた髮が青空の下に輝いてゐた時、彼女は杖によつて道を歩みつつ、その杖が新らしく黒く艶やかに塗られてあることを見て、安心したのであつた。自分のすべてを習慣と經驗とによつてよごしたくない。古くしたくない。
 お葉は松葉杖の古きによつて、わが癈疾のいにしへをしのぶことを悲しむ。彼女が、いま五年後にその災《わざはひ》を思ふ時、痛みは古く思出の淡いことを恐れた。自分の災は新らしい、自分の痛みは新らしい。
 お葉はいつか青山の墓地などを車で通つた時、よごれた繃帶を卷きつけた白木の松葉杖に身を持たせて來た癈兵を見たことを思ひ出したのである。
 彼女は縁に出て手の爪を切つた。そして足の爪を切つた時に、いづこにか一脚の足の爪が櫻いろに美しく切られて、花のやうに置かれてあることを考へた。それは空の美しい日であつた。開かれた窓に木の葉が散つてゐた。お葉はベッドの上に起きなほつて、その前日痛める身體を清める爲めに、紫いろの湯に浸されたことを考へた。お葉はその時清らかに終るべき身の靜けさに、剪刀《はさみ》を取つてすべての不潔を切り取つたのである。手の爪は美しく取られた。やがて彼女は繃帶に卷かれて、わづかに五本の指先のみ出てゐる右足の白い爪を、靜かに切り取つたのである。そこに嘆きもなく再び見ることなき瞳を、茫然と開いてゐたのである。
 その時白いお茶の花を瓶にさして呉れた看護婦が、銀いろの剪刀《はさみ》を持つて來て、ドアを押した。そしてお葉の爪を見たのである。看護婦は驚いたやうにやや誇張して、
「まあ、綺麗、おとり
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