三十三の死
素木しづ子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お葉《えふ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)泣く程|口惜《くや》しく

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)什※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《どんな》に
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 いつまで生きてていつ死ぬか解らない程、不安な淋しいことはないと、お葉《えふ》は考へたのである。併し人間がこの世に生れ出た其瞬間に於いて、その一生が明らかな數字で表はされてあつたならば、決定された淋しさに、終りの近づく不安さに、一日も力ある希望に輝いた日を送ることが、むづかしいかもしれない。けれどもお葉の弱い心は定められない限りない生の淋しさに堪へられなくなつたのである。そして三十三に死なうと思つた時、それが丁度目ざす光明でもあるかのやうに、行方のない心のうちにある希望を求め得たかのやうに、限りない力とひそかな喜びに堪へられなかつたのである。
 お葉は十八の年、不具になつた。
「これからなんでもお前の好きなことをしたがいい。」
 一人の母親はそれが本當に什《ど》うでもいいやうに、茫然とお葉の顏を見て言つたのである。庭の椿《つばき》の葉の上から、青空が硝子《ガラス》の樣に冷たく澄んでゐるのを見てゐた彼女は、急に籠を出された小鳥のやうに、何處へ飛んで行かうといふ、よるべない空の廣さに堪へられない淋しさを感じた。
 空は廣い。その始めと終りはいづこに定められてあるのであらう。人間は生きるといふ事さへ定められてない。死といふことさへ定められてゐないのだ。人間が初めて草のやうに生ひ立つた自身を振り返つて、限りなく晴れた空の廣さを見上げた時、そこに落ちつきのない不安なとりとめのない淋しさが身に迫る、お葉は初めて自分の身を振り返つたのである。彼女はいま黄昏《たそがれ》の部屋に於いて、靜かに縫つてゐる銀色の針でさへ、いつ折れるか解らないことを考へた。自分の五本の指でさへ、その二本が失はれないとも限らない。お葉は赤い帶の下につつましく重ねられた二脚の足の一脚は、豫期しない運命の爲めに奪略されたのであつた。彼女は針を止めて、その指を一つ一つ折つて行く未來の中に三十三といふ年のあることを考へたのである。その年は月光のやうな青白い光りを持つてゐることを感じた。劍のやうな鋭さを持つてることを考へた。そしてお葉はそこに瞑想したのである。ささいの感情はそこに弱いもののすべてを迷信的に支配した。それにどんな矛盾があつてもいい。彼女は三十三の年に死なうといふ事を考へて、定められた自分の命の尊さに、充實した力づよさを感じたのである。
 お葉はすべての幸福を死に求めた、それが未來であるやうに。またすべての行爲は死によつて定められた、それが希望であるやうに。すべて見る眼考へる心、それに死は幻のごとく浮んだのである。
 彼女は夕方よく裏道を歩いた。
 母に連れられた子供は、遠い夕雲と母親の足どりに氣をくばりながら物悲しく歩いて、お葉と行き違つたのである。子供はふと悲しくなつて母親を見た。母親は笑つて子供を振り返つた。子供は漸く安心したやうに改めて、お葉に對して驚異の瞳《ひとみ》を輝かしたのであつた。
 いつまでたつても子供の好奇心は盡きさうにない。そして漸く斜に歩き出して、やがて傍の小さな溝に落ち入つたのである。水のない溝のなかに片肘《かたひぢ》ついて轉げた子供の瞳は、それでもなほお葉の體から離れなかつたのである。
 もしそこに、どす黒い水が子供の死を迫つてゐたとしても、子供は初めて瞳に寫した驚異の爲めに、眼を見はつてゐたのであらうか。お葉が振り返つて子供を見た時、湧き出るやうな微笑をおさへる事が出來なかつたのである。子供は最初、馬が四足で歩くことを驚いたに違ひない。人間が鉢卷をして車を引くことにあきれたことだらう。やがて子供は瞳を閉ぢて笛を吹いて行く人、背中を駱駝《らくだ》のやうに曲げて歩く人、二脚の杖にすがつて、一脚の足を運ぶお葉の姿に驚きを感じたことであらう。
 土塀の側には、女の子が輪を畫いて大聲に唄つてゐた。しかしお葉が來かかつた時、一齊にやめられたのである。
「可哀想だわね。」
 銀杏返《いちやうがへ》しに結《ゆ》つた小さなませた子守が、ひそかに言つて眉をひそめた。するとそこに目のくるりとした小さな子が、不意に聲高く叫んだのである。
「あたし、憎らしいわよ。」
 子供等は皆圍むやうにして見守つた。お葉はまたこみ上げて來る微笑を押へることが出來なかつたのである。
 これが二ケ月前であつたなら、目にあふれるやうな泪《なみだ》をたたへて、格子の外から母を呼んですがつたことであらう。お葉はふとそれを考へて微笑を感じたが、また人知れぬ死のよろこびを考へてゐたのであつた。
 それからお葉が矢來垣の靜かな片道を歩いた時、そこに瞳の大きい淋しげな二人の女の子が、さも滿足したやうに、
「お父樣とおんなじだわね。」と瞳を見合つたのである。
 そして睫毛《まつげ》をしばたたきながら、仰ぐやうにして再びお葉を見上げたのであつた。お葉は遠く幼子の影を見返つて考へた。
 あの子の父親は、淫蕩の爲めに不具になつたのであらうか。またそれが不意の風のやうに起つた禍《わざはひ》であつたのであらうか。また自分のやうに靜かに襲つて來た病魔の仕業であつたかもしれない。
 彼は最早死といふことを思つてはゐまい。日々生きる爲めに、日々種々な種をまいて來たのだ。彼の魂や肉體は分けられて、いよいよ根深く大きくなつたのであらう。
 彼は自分一人を殺すことが出來ない。彼が死を思立つ時、父親より分けられた魂を持つた物淋しき多くの子供や、彼と融合して生きて行く女は彼の如く足を失ひ手を失ふ嘆きを見るのである。彼は死を許されずして、次々の希望に生きてゆく時不意に奪略されるであらうと思つてお葉は見しらぬ彼の爲めに暗い心を抱いて悲しんだのである。
 お葉はまた賑かな街を歩いた。往來の人が彼女に瞳をそそぐ爲めに、つまづくのを見た。またいろいろなビラの下つた活動寫眞の横町から兩足のない乞丐《こじき》が兩手をついてのそりと出て來たことを覺えてゐる。
 お葉は最初身がすくむやうにおびえた。
 しかしやがて心は恥しさと腹立たしさに燃えてゐるのであつた。その時お葉が眞に幸福な滿足な死を思ふ心がなかつたならば、そこにしばらく嘆き疲れたかもしれない。お葉はやがて考へまい、見まいとして歩いたのであつた。
 それは雨上りの日であつた。
 お葉は道具屋の軒下を伏し目に歩いてゐた。そしてふと目の前を見た時、堪へられない恥しさを感じて、深く瞳を閉ぢたのである。それは往來の眞中をお葉と同じ松葉杖に身をよせて來た少女を見たからであつた。頭には桃いろのよごれたリボンがつけてあつた。その眼は物珍らしく四邊《あたり》の店頭に走つてゐたのである。短い着物の裾からそれは丁度白木の棒のやうに長く一脚の足が出て、それにはまた高い一つの足駄がついてゐるのであつた。そして杖を支へる木のやうに、松葉杖が少女の脇下を兩方からつり上げて丁度木とゴム製の玩具のやうにクルクル前の方に進んでゐるのである。お葉は本當に恥しいものを見たと思つて、一目見るなり肩をつぼめ、裾ながく着た着物の中に一脚の足をすくめるやうにして、首を垂れて歩いた。往來の人が多い。往來の人はすべて袖を引き合つて少女を見た。お葉は心の中に一心になつて、その少女と自分が見くらべられることを避け樣とした。人々がもしあの少女を見たならば瞳をめぐらして自分を見出さないで欲しい。もしも又前から自分を見てゐたならば、踵《くびす》を返してあの少女に目をとめないで欲しいと祈つた。しかし人間の眼は自在に動く。彼《か》の少女を捕へた好奇の瞳は、やがて軒下を憚《はばか》つて歩くお葉の亂れた銀杏返しから、足元に到つたのである。そして裾にからまつて見えかくれする足は玩具のやうに進んだ少女と等しくあることを見出して、瞳を見張つた。そして誇りかの娘は、連れそつた男の袖を引いて小聲に何か囁いたのである。二人の眼は險《けは》しく先にゆく少女の影と、行きすぎたお葉の姿を見くらべた後、彼等の心は少しの動搖も起さず、平和に道を歩いて行つたのであつた。お葉は人の少い通に出た時、輝《かがやか》しい瞳を上げて大空を仰いだのである。そして、「私は本當に死ぬんだもの、三十三には死ぬんだもの、」と心のうちに嬉しく叫んだのである。誰れも知るまい。私が死ぬなんて云ふことも、私の死がどんなに幸福であるかといふことも、すべての人は知らないんだ。
 彼女はやがて歩き出しながら、先刻《さつき》行き違つた少女のことを考へたのである。あの少女はまだ死なんて云ふことを考へる事が出來ないに違ひない。從つて自分がいま生きてゐるといふ喜びを自覺しないで、尊い生を無意義に必ず虐《しひた》げられてあることを思つて悲しんだのであつた。
 お葉はあく迄死を信じた。三十三の年に於いて自らの死を信じて疑はなかつた。
 彼女の死は虚榮だかもしれない。反抗だかもしれない。復讎《ふくしう》だかもしれないのだ。お葉は年齡の醜い影を見たかなかつた。また嵐が草木を折るやうな奪略を恐れた。彼女が三十三に於いて眞に死に得た時は、その三十三の生がどんなに華やかな力づよいものとなるであらう。その時の死は勝利の凱旋《がいせん》である。死を定めてすべてを擲《なげう》つたのでなかつた。お葉は死を定めてすべてに光明を見出したのである。そしてお葉は自分が三十三に死が斷行された時、幸福である死と生を考へた。自分の生命は自分のものである。出來る丈幸福に美しくあらせたいと思つた。
 お葉は二十五に死んでも不可《いけ》ない。三十に死んでも不可ない。三十二に死んでも不可ない。彼女はもしも浮世のある僥倖《げうかう》に引きずられて、三十三といふ年齡を通過したならばと考へて悲しんだのである。また日が暮れて一日の悔《くい》と悲しみが心に殘るやうに、日が暮れて希望や計畫が明日といふ日に殘るやうに、三十三といふ年に於いて三十四といふ年を思ひ、そこにすべての執着が殘つたならばといふことを怖れたのである。一日に於いて一日の事は終らねばならぬ。今日といふ日から明日といふ日につづいてゐてはならぬ。すべて引ずられるといふ事は恐ろしいことだ。引ずられて三十四といふ年齡を見た時、そこにやがて五六七八の年は連《つらな》つてゐる。死の力も生の力も衰へて奪略さるるのを待つといふ事は、なんといふ淺ましい醜いことであらう。
 お葉は仕事もなく考へもなしに終つた一日を、一人床の中に考へた時、泣く程|口惜《くや》しく思つたのである。その心が餘儀なく明日といふ日を求める。明日を求める心は、やがて三十四を求める心でないだらうか。
 お葉は本當に強く生きなければならない。そしてまた強く死ななければならないと思つた。それで道を歩いてゐる時、家に仕事をしてゐる時、豫期しない死の襲つて來るのを怖れた。彼女は怖ろしい響を殘して行き過ぎた電車のレールを横ぎらうとして、その輝くレールの上に、自分の黒髮の亂されてある事を思つて戰慄《をのの》いた。又靜寂な夕暮れの公園の砂利の上を歩きながら、杖の下の小石が思ひがけなくクルリとかへつてトンと下つた時、このまま大地に再び立上られなくなることを思つて驚いたのである。また彼女が妹の友染《いうぜん》の衣を縫ふ時、この片袖のつかない明日といふ日に目隱しされたやうに再び、この世を見ることが出來なくなりはすまいかなどと思つた。
 お葉はいま紫いろの海のやうに暮れてゆく市中を、二階の窓に立つて、限りなく果てなく見入つてゐたのである。灯がつく。一つ一つ灯がつく、彩《いろ》どられた銀杏《いちやう》の淋しさに鳥は鳴いてゆくのであつた。彼女はその時初めて心のなかにうつした男の戀しさを考へたのである。白梅の散るころ、明るく輝き出した目のなかに、お
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