おかみさんの細い眼のいろなどが、物なつかしく浮んで來たのである。四五日たつても新らしい家に風呂は買はれなかつた。お葉の肌には赤黒く垢が浮いて來た。それで彼女は寒い朝早く、母親と二人近所の浴場に行つたのである。
「いらつしやいませ、どうぞ最う三十分|許《ばか》りお待ちなすつて下さいませ。」
 奧から出て來た若い男が丁寧に言つて、眞鍮《しんちゆう》の火鉢を持つて來て呉れた。
「お寒う御座います。どうぞお暖《あた》り下さいませ。」母子《おやこ》は靜かに水のたれる音を耳にしながら火鉢によつた。壁にかけてある芝居のビラなどを、お葉は靜かに見上げながら、母親の顏をぢつと見たのである。彼女はささいの事にでも、生きて行く悲しみを思ふ、生きるといふ事は悲しむといふ事であつたのだ。
 お葉は寒い朝々を、母親と共に家が新らしくなると共に、見しらぬ浴場をめぐつて歩かねばならないのだらうかと、ふと感傷的な事を考へて、母親の顏を見ながら、この年老いた母親が、必ず自分より先に死ぬであらうといふことを思つて、胸が迫つたのである。そして自分のすべての強さも、生きてゆく醜くさも、この目の前にゐる母親の爲めであると思つた。
前へ 次へ
全30ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
素木 しづ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング