お葉がすべてのバンドを解いて、義足を露骨に投げ出した時、すべての罪、責任から逃れたやうな安堵《あんど》の息のなかに、そのまま昏睡しようとした。
 お葉は新しい家の二階に上つて見たのである。夕ぐれの藍色の空に高い高い浴場の煙突が聳《そび》え、白いほのかな煙りがゆるやかに流れてゐた。そして何物もない靜かな空は象眼細工のやうに細い月がかかつてゐたのである。お葉の心はいづことなく天地のなかから響くどよめきのなかに淋しく沈んだ。新しい浴場はいま青い瓦斯《ガス》のいろに美しく浮き出て、そこに花のやうな香が立ち舞ふのである。お葉の瞳はいつか物珍らしげに向ひの家を見下ろして、その格子窓から洩れる三味の音を聞いてゐるのであつた。それはなんの歌とも解らない。しかしその調子のままに動いてゐた心が、やがてばたりと切りはなされて、お葉は茫然《ぼんやり》した。三味はやんで、やがて格子ががらりと開いたと思つたら、繻子《しゆす》の細帶を結んで唐人髷《たうじんまげ》に結つた娘が、そのまま駈け出して湯屋のなかに吸はれるやうに入つたのである。
「自分の世界とはすつかり違つてゐる。」
 お葉はなんとなくそんな事が考へら
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