そしてお葉は自分が三十三に死が斷行された時、幸福である死と生を考へた。自分の生命は自分のものである。出來る丈幸福に美しくあらせたいと思つた。
お葉は二十五に死んでも不可《いけ》ない。三十に死んでも不可ない。三十二に死んでも不可ない。彼女はもしも浮世のある僥倖《げうかう》に引きずられて、三十三といふ年齡を通過したならばと考へて悲しんだのである。また日が暮れて一日の悔《くい》と悲しみが心に殘るやうに、日が暮れて希望や計畫が明日といふ日に殘るやうに、三十三といふ年に於いて三十四といふ年を思ひ、そこにすべての執着が殘つたならばといふことを怖れたのである。一日に於いて一日の事は終らねばならぬ。今日といふ日から明日といふ日につづいてゐてはならぬ。すべて引ずられるといふ事は恐ろしいことだ。引ずられて三十四といふ年齡を見た時、そこにやがて五六七八の年は連《つらな》つてゐる。死の力も生の力も衰へて奪略さるるのを待つといふ事は、なんといふ淺ましい醜いことであらう。
お葉は仕事もなく考へもなしに終つた一日を、一人床の中に考へた時、泣く程|口惜《くや》しく思つたのである。その心が餘儀なく明日といふ日を求める。明日を求める心は、やがて三十四を求める心でないだらうか。
お葉は本當に強く生きなければならない。そしてまた強く死ななければならないと思つた。それで道を歩いてゐる時、家に仕事をしてゐる時、豫期しない死の襲つて來るのを怖れた。彼女は怖ろしい響を殘して行き過ぎた電車のレールを横ぎらうとして、その輝くレールの上に、自分の黒髮の亂されてある事を思つて戰慄《をのの》いた。又靜寂な夕暮れの公園の砂利の上を歩きながら、杖の下の小石が思ひがけなくクルリとかへつてトンと下つた時、このまま大地に再び立上られなくなることを思つて驚いたのである。また彼女が妹の友染《いうぜん》の衣を縫ふ時、この片袖のつかない明日といふ日に目隱しされたやうに再び、この世を見ることが出來なくなりはすまいかなどと思つた。
お葉はいま紫いろの海のやうに暮れてゆく市中を、二階の窓に立つて、限りなく果てなく見入つてゐたのである。灯がつく。一つ一つ灯がつく、彩《いろ》どられた銀杏《いちやう》の淋しさに鳥は鳴いてゆくのであつた。彼女はその時初めて心のなかにうつした男の戀しさを考へたのである。白梅の散るころ、明るく輝き出した目のなかに、お葉はその青年の姿を見たのだつた。
青年は折々彼女の家に遊びに來た。
暗い階子《はしご》を登つて灯のついてない二階に登つて來た時、マッチをすつて瓦斯《ガス》をつけて呉れた。夕闇のなかに俯向《うつむ》いて坐つてたお葉が夢から覺めたやうに首を上げた時、隈《くま》なく明るくなつた部屋のなかに、美しい青年の瞳が輝いてゐたのである。お葉はその青年が堪へられなく戀しい時があつた。青年はお葉を愛してゐた。
彼女はいま夢のやうな心のうちに、物悲しい氣分が彼女の心をつつんで行くのを覺えた。今自分は愛されるといふ幸福の爲めに、死を忘れてしまふんぢやないかと思つたのである。そして戀しいと思ふ心の惰性に引ずられて、そこに思ひがけなく年齡の醜い影を見るのぢやないかと思つたのである。それがすべて刹那の幸福であり、僥倖の嬉しさであるのだけれども――。お葉の心は刹那の爲めに動き易い。人はすべて僥倖の幸福に生きたのであつた。彼女はその時生きてることの悲しさを思つたのである。
青年はある時快活に叫んだ。
「ねえ、僕だちは運命の先を歩くんだ。」
その時お葉は青年と共に微笑《ほほゑ》んだ。そしてうつ向きながら、瓶の中のダーリヤをつまんだのであつた。自分の三十三の死といふのは、本當に運命に支配されない、運命の前を歩くといふ事だつたのだ。自分は自分の一生を自分で取りきめたのであつて、それが運命なのぢやない。お葉は再び微笑んだのである。しかし自分の心を知らない前に坐ってゐる青年の姿が淋しく見えたのであつた。
お葉は自分の肉體を見ることを出來るたけ避けたのである。けれども彼女が夜おそくうす暗い湯殿のなかに衣を脱いだ時、ふくらんだ乳房が物悲しく動悸《どうき》をつたへてゐた。彼女は湯つぼのなかに永く靜かに夢のやうな死を考へて浸つてゐるのであつた。やがて覺めたやうに目を見開いて、初めて臺の上に腰を降してゐる自分の肉體を見出した時、時としては烈しい動悸が胸をつらぬいて、あわてて母を呼び立てねばならないと思つたこともあつた。お葉はタオルを胸にあてて、暫く顏を押へたのである。その時彼女にのみある幸福な死は、お葉の心を和《やはら》げたのであつた。お葉が再び顏を上げて心の靜けさを思つた時、細い窓から月光が流れて、彼女の肉體は神の如く清く美しくあつた。お葉は布を腰にまき衣を肩にかけて、初めて衣のない神代に人と生れあはせな
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